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学生向けツールから3300万人のコミュニティへ:Arduino 20年の軌跡とQualcomm買収

買収と同時発表された新ボードArduino UNO Q。(画像出典元:Arduino公式ストア)

半導体大手のQualcommが2025年10月7日、イタリアのオープンソースハードウェア企業Arduinoの買収を発表した。買収額は非公開。この発表は、Qualcommが開発した新ボード「Arduino UNO Q」の発表と同時に行われ、世界中のメイカーコミュニティに大きな波紋を広げている。Arduinoは3300万人以上のアクティブユーザーを抱え、20年にわたりメイカームーブメントを支えてきた象徴的な存在だ。本記事ではArduinoの誕生から現在までの経緯をまとめた。

学生向けツールから世界的ムーブメントへ

最も有名なArduinoボード「UNO R3」。(画像出典元:Arduino公式ストア)

Arduinoは2005年、イタリア北部イヴレアにあるInteraction Design Institute Ivrea(IDII、イタリアのコンピュータ企業Olivettiとテレコムイタリアが2001年に設立したインタラクションデザイン専門の大学院)で誕生した。創業メンバーはMassimo Banzi、David Cuartielles、Tom Igoe、Gianluca Martino、David Mellisの5名だ。当初の目標はシンプルで、デザインを学ぶ学生が安価に電子工作プロジェクトを作成できるツールを提供することだった。30ドル程度の価格設定は、Banziによればピザ屋で夕食を取るのと同等の価格だった。

Arduinoという名前は、創業者たちがよく集まっていたイヴレアのバーに由来する。このバー自体は11世紀のイタリア王Arduin of Ivreaにちなんで名付けられていた。初代ボードは一般的な緑色ではなく青色で作られ、豊富なI/Oピンと背面にイタリアの小さな地図が配置された。

製品は爆発的に普及した。2006年に5000台、2007年に3万台、2008年までの2年間で累計5万台を販売した。2011年時点で30万台以上、2013年には70万台以上の公式Arduino基板が流通していた。2015年までに100万台以上、そして特にArduino Unoモデルだけで1000万台が販売された。

商標を巡る分裂劇

2016年の和解を発表した公式ブログ記事

しかし、Arduinoの歴史は順風満帆ではなかった。2008年初頭、5人の共同創業者はArduino LLCを設立し、商標を管理する体制を整えた。しかし同年12月、Martinoが経営する製造パートナーSmart Projects SRLが、他の4人の創業者に知らせずイタリアでArduinoの商標を秘密裏に登録していたことが後に判明する。この秘密は約2年間隠されていた。

対立が表面化したのは2014年だった。根本的な原因は、Arduinoの将来方向を巡る意見の相違だった。Banzi、Cuartielles、Igoe、Mellisの4名は製造を複数企業にライセンスし、中国を含む世界各地での生産を検討していた。一方、Martinoはイタリアでの製造集約と株式市場への上場を望んでいたのだ。

Smart Projects SRLはイタリアでの商標登録後、世界各国で同様にArduino商標の登録を進めた。一方、Arduino LLCは2009年に米国で商標を申請していた。2014年9月、Arduino LLCはイタリアでSmart Projectsを商標侵害で提訴した。

同年10月3日、Smart Projects SRLは米国特許商標庁(USPTO)に対し、Arduino LLCの米国商標の取り消しを申請した。米国商標法は使用主義を採用しており、未登録であっても先に使用していれば権利が発生する。Smart Projects SRLの主張は、2005年からArduinoの名でボードを製造してきたが、Arduino LLCは2009年に設立されたに過ぎないというものだった。

2014年11月、Smart Projects SRLは社名をArduino SRLに変更し、arduino.orgドメインを登録した。これはarduino.ccのレイアウトを複製したものだった。この頃、MartinoはArduino SRLの所有権を売却し、Federico MustoがCEOに就任した。

2015年1月、Arduino LLCはマサチューセッツ地方裁判所でArduino SRLを提訴した。この時期、2つのArduinoが併存する異常事態となり、ユーザーに混乱をもたらした。Arduino LLCは米国外でGenuinoブランドを使用せざるを得なくなった。

2016年10月1日、ニューヨークのWorld Maker Faireで、BanziとMustoは和解と合併を発表。新たにArduino Holding(後のArduino AG)を設立し、Mustoが50%、BCMI(Banzi、Cuartielles、Mellis、Igoeが設立した企業)が49%、Martinoが1%を保有する体制となった。

しかし2017年4月、Wired Magazineの調査により、MustoがMIT(マサチューセッツ工科大学)の博士号とNYU(ニューヨーク大学)のMBAを詐称していたことが判明した(Wired)。2017年7月28日、BCMIはArduino AGの100%所有権を取得し、Mustoは退任した。BanziがCTOおよび会長に復帰し、Fabio ViolanteがCEOに就任した。Banziはオープンソースハードウェアとソフトウェアへのコミットメントを強化し、同時に財務的に健全な成長路線に会社を乗せる新時代の始まりだと述べた。

市場での立ち位置とRaspberry Pi

2012年2月29日、Raspberry Piが35ドルで発売され、メイカー市場に激震をもたらした。当初目標は1万台だったが、初回ロットは即座に完売し、最初の6か月で50万台、2015年までに500万台、2024年2月までに5700万台のRaspberry Piコンピュータが販売された。2024年時点で、Pico含め6100万台以上が販売されている。

一方、Arduinoは2011年時点で30万台以上、2013年には70万台以上、2015年までに100万台以上を販売した。特にArduino Unoモデルだけで1000万台が販売された。販売台数では大きく差がついたが、2023年のArduinoの収益は1億4250万ドルに達した。Arduino互換市場は2025年に8億1530万ドル、2032年には16億ドルに達すると予測されている。

両者は異なる市場を狙っていた。Arduinoはマイコンプラットフォームで、リアルタイム制御や繰り返しタスク(センサー読み取り、モーター制御、ライト点灯など)に適している。一方、Raspberry Piはシングルボードコンピュータ(SBC)で、Linuxが動作し、メディアセンター、Webサーバー、画像処理、AIなど複雑な計算タスクに向いている。

Arduinoのビジネスモデルはオープンソースを核としていた。すべてのハードウェア設計はCreative Commons ライセンスで公開され、誰でも製造できた。唯一保護されたのはArduinoという商標だけだった。共同創業者Tom Igoeは、Arduinoが持っているのは基本的にブランドだけであり、それこそが重要だと述べている。その言葉に裏付けられているように、Arduinoの主要な収益源はマージンを低く抑えたボード販売ではなく、コンサルティングサービスが主だった。企業がArduinoベースのデバイス開発を依頼し、創業者たちは専門知識を提供した。中国製や台湾製の安価なクローンが市場に出回ったが、公式のArduinoも売上を伸ばし続けた。Igoeは、模倣品は自分たちのビジネスにとって良い結果をもたらしたと語っている。

Qualcommによる買収

Qualcommは2024年3月にエッジコンピューティング企業Foundries.ioを、2025年3月に機械学習プラットフォームEdge Impulseを買収しており、Arduinoはその戦略の完成形となる。Qualcommグループ・ゼネラルマネージャーのNakul Duggalは「Foundries.io、Edge Impulse、そして今回のArduinoの買収により、グローバルな開発者コミュニティに対する先端AI・コンピューティング製品へのアクセスを民主化するビジョンを加速している」と述べた。

買収契約は規制当局の承認待ちで、Arduinoは独立子会社として運営される。

買収と同時に発表されたArduino UNO Qは、Qualcommの「Dragonwing QRB2210」プロセッサ(クアッドコアARM Cortex-A53、最大2GHz)とSTMicroelectronicsのSTM32U585マイコンを搭載した「デュアルブレイン」アーキテクチャを採用している。DebianリナックスとZephyr RTOSの両方を動作させ、AI加速機能を備える。価格は2GBモデルが44ドル、4GBモデルが59ドルで、2025年10月25日から出荷開始予定だ。

問われるオープンソースの未来

買収発表から数日後、インターネット上ではさまざまな反応が寄せられた。影響力のあるメイカーJeff Geerlingは自身のブログで、Qualcommが優れた管理者になるかどうか信頼できず、このニュースを受けて離れる人もいると確信していると述べた。彼はQualcommがLinuxサポートを長期的に維持するか、Raspberry Piのように継続的にアップデートを提供するかについて疑問を呈した。

技術的懸念も指摘された。あるユーザーはQualcommのドキュメンテーションがNDA必須で不完全なレジスタマップしか提供されないとコメントした。一方でオープンソースコミュニティがライブラリを提供し続け、中国メーカーがボードとアクセサリを提供し続ける限り、Qualcommが潰そうとしても潰せないという意見も存在した。

Arduino共同創業者のMassimo Banziは、Arduinoのシンプルさ、手頃な価格、コミュニティへの情熱がテクノロジーを変えるムーブメントを生み出したとし、Qualcommと合流することで、常に最も重視してきたことに忠実でありながら、最先端のAIツールをコミュニティに提供すると述べた。しかしBanziは移行期間後にArduinoを離れることを明らかにしており、20年間の関与を終える。

Arduino CEO Fabio Violanteは、Qualcommとの連携により、アクセシビリティとイノベーションへのコミットメントを加速すると述べた。UNO Qは始まりに過ぎないと前向きな姿勢を示した。

Makerコミュニティにおいて懸念があるとすれば、Qualcommが本当に長期的にオープンソースの価値観を尊重し続けるかという点だ。UNO Qの回路図はCreative Commons Attribution-ShareAlike 4.0ライセンスで公開されているが(Arduino公式サイト)、Dragonwing QRB2210チップ単体を個人の開発者が入手できるかは不透明だ。Jeff Geerlingは、Qualcommパートナーになり、数百個、数千個単位で注文する必要があるかもしれないと指摘している(Jeff Geerling Blog)。

TechInsightsのアナリストManish Rawatは、この動きが開発者の技術的障壁を下げ、プロトタイピングサイクルを加速し、組み込みプログラミングとAIおよびデータ処理を統合すると評価している。一方、業界ウォッチャーであるKevin Daiは、Qualcommが開放性を維持すると約束しても、開発者はQualcommハードウェアとの密接な結合を恐れるかもしれないと述べた。

買収発表からわずか2日という短期間では、真の影響を判断するには早すぎる。しかし、オープンソースハードウェアの象徴的存在であるArduinoが半導体業界の巨人に飲み込まれたことで、メイカームーブメントの未来に対する不安は確実に存在している。今後1〜2年の間に、Qualcommが本当にエコシステムが所有権の変更を感じない状態を維持できるかどうかが試されることになる。(文中敬称略)

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FabScene編集部

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