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Raspberry Pi:35ドルの教育用コンピューターが、個人の電子工作から企業製品まで動かす存在になるまで

画像出典元:Raspberry Pi財団Webサイト、PopTech(CC BY-SA 2.0)

2012年2月29日、英国ケンブリッジ発の小さな教育用コンピューターが世界に衝撃を与えた。

35ドルという価格設定で「生涯販売1万台」を見込んでいたRaspberry Piは、発売初日に10万件を超える注文を受け、サーバーがダウンするほどの需要に見舞われた。それから13年、累計販売台数は6800万台を超え、売上の3分の2以上が産業・組み込み用途という、創業者たちの予想を大きく覆す存在へと成長している。

本記事ではRaspberry Piの創業の経緯から、これまでに発表した製品に加え、Raspberry Piを採用した製品の事例や同財団の成長の過程を紹介する。

始まりはケンブリッジ大学の危機感から

Raspberry Pi Foundationは2008年秋、David Braben、Jack Lang、Pete Lomas、Rob Mullins、Alan Mycroft、Eben Uptonの6人によって設立された。彼らの多くはケンブリッジ大学コンピューター研究所の関係者であり、ある深刻な問題を目の当たりにしていた。

コンピューターサイエンス専攻への志願者数が、1999年の約600人から2008年にはわずか200人へと激減していたのだ。1980年代にBBC MicroやZX Spectrumといったホームコンピューターでプログラミングを学んだ世代とは異なり、2000年代の若者にとってコンピューターは「消費するもの」であって「創造するもの」ではなくなっていた。

Raspberry Pi財団の主な創業メンバー(出典元:Core Electronics

Raspberry Pi HoldingsおよびRaspberry Pi FoundationのCEOをつとめるEben Uptonは当時を振り返り、「1980年代の子供たちは低コストでプログラム可能なマシンにアクセスできた。それらは教育用に設計されたわけではなかったが、発見のためのツールとなった。その風景が2000年代初頭までにほぼ消滅した」と語っている。

この状況を打開するため、Uptonは2006年頃からプロトタイプの開発を開始した。当初はAtmel ATmega644マイクロコントローラを使った試作機を製作し、その後Broadcomとの協力関係を経て、BCM2835 SoCを搭載した現在の形へと発展していった。

初代Raspberry Piのプロトタイプ(出典元:Raspberry Pi財団Webサイト)

2012年:開発者の予想を覆した初代Raspberry Pi

2012年2月29日午前6時(GMT)、Raspberry Pi Model Bが発売された。製造・販売パートナーのelement14とRS Componentsのウェブサイトは、アクセス集中により数時間にわたってダウンした。

Raspberry Pi 1 Model B+(出典元:Raspberry Pi財団Webサイト)

初代モデルの仕様は控えめだった。Broadcom BCM2835(700MHz ARM11)、RAM 256MB(後に512MBモデルを追加)、SDカードストレージ、HDMI出力、USB 2ポート、100Mbpsイーサネット、26ピンGPIOを備え、価格は35ドル(約5000円、Model B)だった。

性能面では、同時代のスマートフォンにも劣る水準だった。しかし重要だったのは性能ではなく、35ドルという価格でLinuxが動作する汎用コンピューターが手に入るという事実だった。

発売から1年で100万台、2年で250万台を販売。当初の「生涯1万台」という予測は、いかに市場を読み違えていたかを物語る。購入者の大半は子供ではなく、大人のホビイストやMakerたちだった。彼らがRaspberry Piの草の根的な普及者となり、教育現場への浸透を後押ししていった。デジタルサイネージソフトウェアのScreenlyのように、発売直後からRaspberry Piの商用可能性に着目した企業も現れたが、エンタープライズ用途における大規模な採用はまだ先の話だった。

35ドルから始まった性能競争

Raspberry Pi 2(2015年2月):Windows対応で広がる可能性

Raspberry Pi 2 Model B(出典元:Raspberry Pi財団Webサイト)

発売から3年、Raspberry Piは初めてのメジャーアップデートを迎えた。BCM2836 SoC(クアッドコア ARM Cortex-A7 @ 900MHz)と1GB RAMを搭載し、ARMv6からARMv7アーキテクチャへ移行した。

クアッドコア化によりマルチスレッド性能は約6倍に向上し、シングルスレッド性能も動作周波数の向上とアーキテクチャ改善により1.5〜2倍程度向上した。ARMv7への移行はソフトウェア互換性の面で大きな意味を持ち、Ubuntu CoreやWindows 10 IoT Coreなど、より幅広いディストリビューションが利用可能になった。

発売時の公式ブログでUptonは「私たちには多くの産業顧客がおり、彼らは当面Raspberry Pi 1を使い続けたいと考えている」と述べた。ホビイストとして使い始めた人々が職場に持ち込み、デジタルサイネージやシンクライアント、プロセス自動化といった用途で採用するケースが徐々に増えていたのだ。

価格は35ドルを維持。製造最適化により、同時にModel B+を25ドルに値下げすることも可能になった。2週間で50万台を販売し、この時点で累計販売台数は500万台に達した。

2015年当時、Raspberry Piには多くの競合製品が登場していた。C.H.I.P.(9ドル、約1300円)やBeagleBone Black、Banana Piなどがそれにあたる。しかしRaspberry Piはコミュニティの規模、ソフトウェアサポートの充実度、そして安定した供給体制において他を圧倒していた。Pi 2はこの優位性をさらに強固なものとした。

Raspberry Pi 3(2016年2月29日):無線接続の標準化

Raspberry Pi 3 Model B(出典元:Raspberry Pi財団Webサイト)

Raspberry Piの4回目の誕生日に合わせて発表されたRaspberry Pi 3は、ユーザーからの最大の要望に応えた製品だった。BCM2837 SoC(クアッドコア64ビット ARM Cortex-A53 @ 1.2GHz)を搭載し、BCM43438チップによる802.11n WiFiとBluetooth 4.1をサポートした。

64ビット対応のCortex-A53コアへの移行により、32ビットモードでもPi 2比で50〜60%の性能向上を実現した。オリジナルのRaspberry Piと比較すると約10倍の性能となる。

しかし最大の変化は、WiFiとBluetoothの統合だった。これまでRaspberry PiでWiFi接続を実現するには、USBポートにドングルを接続する必要があった。Pi 3ではこれが不要となり、USBポートを他の用途に解放できるようになった。IoTプロジェクトにとってはゲームチェンジャーだった。

2016年9月、累計販売台数が1000万台に到達。この頃からRaspberry Piは単なる教育ツールを超え、本格的な産業プラットフォームとしての地位を確立しつつあった。

Pi 3の登場時期は、IoT(モノのインターネット)という概念が急速に普及した時期と重なる。センサーデータの収集、スマートホーム、リモートモニタリングといった用途では無線接続が必須であり、Pi 3はこれらのニーズに直接応えた。

Raspberry Pi 3B+(2018年3月):ネットワーク性能の強化

Raspberry Pi 3 Model B+(出典元:Raspberry Pi財団Webサイト)

Raspberry Pi 3の発売から2年、マイナーアップグレードながら重要な改良が施された。BCM2837B0 SoC(1.4GHz、200MHz高速化)、デュアルバンドWiFi(2.4GHz/5GHz)、ギガビットイーサネット(USB 2.0経由のため実効約300Mbps)、専用HATによるPoE(Power over Ethernet)対応、改良された熱設計を備えた。

5GHz帯WiFiのサポートにより、2.4GHz帯の混雑を避けた高速通信が可能になった。PoE対応は、遠隔地への設置やケーブル本数削減を求める産業顧客にとって重要な機能だった。価格は引き続き35ドルを維持。Raspberry Piは「毎年性能を上げながら価格を据え置く」という戦略を貫いていた。

Raspberry Pi 4(2019年6月):デスクトップPCとしての完成形

Raspberry Pi 4(出典元:スイッチサイエンス)

Raspberry Pi 4は、Raspberry Pi史上最大の世代間ジャンプとなった。BCM2711 SoC(クアッドコア ARM Cortex-A72 @ 1.5GHz、後に1.8GHz)を搭載し、RAM構成を1GB(35ドル)/ 2GB(45ドル)/ 4GB(55ドル)から選択可能とした。USB 3.0×2 + USB 2.0×2、デュアルmicro-HDMI(4K60fps対応)、真のギガビットイーサネット(専用コントローラ)を備えた。

Cortex-A72への移行により、オリジナルのRaspberry Piと比較して約40倍の性能を達成。Uptonはこれを「私が両親に買ってあげるRaspberry Pi」と表現し、「多くのユーザーにとって妥協のないPC」と位置付けた。

複数のRAM構成を用意したのは、Pi 4が初めてだった。教育用途では1GBで十分だが、デスクトップ利用や開発サーバーとしての用途では4GB以上が望ましい。この柔軟性により、Raspberry Piは「35ドルの教育コンピューター」から「35ドルから始まるコンピューティングプラットフォーム」へと進化した。

Pi 4の発売から約9カ月後、世界はCOVID-19パンデミックに見舞われた。リモート学習やリモートワークの需要が急増する中、2020年2月には2GBモデルを35ドルに値下げし、「オリジナルと同じ価格で妥協のないデスクトップPC」という象徴的なマイルストーンを達成した。2020年5月には8GBモデルを追加(75ドル)し、より広範なニーズへの対応を進めていった。

Raspberry Pi 5(2023年10月):自社シリコンの時代へ

Raspberry Pi 5 /2GB(出典元:スイッチサイエンス)

Raspberry Pi 5は、Raspberry Piが単なるシングルボードコンピューターメーカーから半導体企業へと変貌したことを象徴する製品だ。BCM2712 SoC(クアッドコア ARM Cortex-A76 @ 2.4GHz)を搭載し、RAM構成は4GB(60ドル)/ 8GB(80ドル)。外部PCIe 2.0×1コネクタ、USB-C PD対応(5V/5A推奨)、バッテリーバックアップ対応リアルタイムクロックを備える。

Pi 5の開発は8年間、約2500万ドル(約36億円)を投じた大規模プロジェクトだった。最大の革新は、RP1 I/Oコントローラの搭載にある。

従来のRaspberry Piでは、USB、イーサネット、GPIO、カメラインターフェースなどすべてがBroadcom SoC内部で処理されていた。しかしBroadcomのSoCはモバイル向けに最適化されており、Raspberry Piの用途(特にGPIOや低レイテンシI/O)には必ずしも最適ではなかった。

RP1は、Raspberry Piが2016年から社内で開発を進めてきた自社設計チップだ。USB 3.0コントローラ、ギガビットイーサネットMAC、GPIOコントローラ、カメラ/ディスプレイインターフェースなどを統合し、Raspberry Piの用途に最適化されている。開発には約1500万ドル(約22億円)を要した

Raspberry Pi TradingのCOO(最高執行責任者)兼ハードウェア責任者であるJames Adamsはインタビューで「BCM2712とRP1、電源管理IC、すべてを協調設計した。基板上のすべてが最適化されている」と述べている。

価格は初めて35ドルの基準を超えた。しかしこれは性能向上と機能拡張の結果であり、「35ドルでできる限りの製品」ではなく「ユーザーが必要とする製品を適正価格で」という方針転換を示している。

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製品ラインの拡充——メインストリーム以外への展開

Model BからPi 5へと続くメインストリーム製品の進化と並行して、Raspberry Piは異なるニーズに応える製品群も展開していった。超小型・超低価格のZeroシリーズ、マイクロコントローラ市場に参入したPicoシリーズ、そして1980年代のホームコンピューターを彷彿とさせるキーボード一体型だ。

Zeroシリーズ:超低価格帯への挑戦

Raspberry Pi Zero(出典元:Raspberry Pi財団Webサイト)

Pi 2発売から9カ月後の2015年11月、Raspberry Piは超小型・超低価格という新たな方向への製品展開を開始した。Pi ZeroはBCM2835 SoC(1GHz、オリジナルの700MHzから高速化)と512MB RAMを搭載し、65mm × 30mm × 5mmというチューインガムサイズにまとめられた。価格はわずか5ドル。The MagPi誌の表紙に無料で添付された史上初の「コンピューター雑誌付録」として話題を呼んだ。

極小サイズと低価格により、これまでRaspberry Piが使えなかった用途:ウェアラブルデバイス、ドローン、組み込みシステム:への道が開かれた。2017年2月にはZero Wが登場し、WiFiとBluetooth 4.1を内蔵して10ドルという価格を実現。IoTセンサーノードとしての利用が急速に拡大した。

5年以上にわたり性能据え置きだったZeroシリーズには、2021年10月に待望のアップグレードが施された。Zero 2 WはBCM2710A1(Pi 3と同じダイを1GHzにダウンクロック)を採用し、RP3A0というシステム・イン・パッケージ(SiP)でSoCとRAMを1パッケージに統合した。このSiPはRaspberry Pi社内で開発されたもので、BroadcomのパッケージではCortex-A53世代のダイサイズを収容できなかったため、独自方式を採用した。オリジナルZero比で約5倍の性能を実現し、価格は15ドルとなった。

Zeroシリーズは2021年時点で累計約400万台を販売した。2022年の半導体不足時には供給が特に厳しくなり、1人1台制限が長期間続いた。同年後半には、製造コスト上昇を理由にZeroを5ドルから10ドルに、Zero Wを10ドルから15ドルに値上げした。

Picoシリーズ:マイクロコントローラ市場への参入

Raspberry Pi Pico(出典元:スイッチサイエンス)

2021年1月、Raspberry Piにとって2つの意味で画期的な製品が登場した。Pi Picoは初めてのマイクロコントローラボード製品であり、初めての自社設計シリコン(RP2040)を搭載した製品でもある。RP2040はデュアルARM Cortex-M0+コア(133MHz)、264KB SRAM、8基のPIO(Programmable I/O)ステートマシンを備え、TSMC 40nmプロセスで製造される。チップ単体は1ドル、Picoボードは4ドルという価格設定だ。

RP2040の最大の特徴は、PIOサブシステムにある。8基のステートマシンを使って、ソフトウェアで任意のデジタルインターフェースを実装できる。これにより、専用ハードウェアなしでWS2812B LEDストリップの制御やVGA出力といった高速I/O処理が可能になった。発売から数カ月で100万台を受注し、世界的な半導体不足の中でも供給を維持した。

2022年6月にはPico Wが登場し、Infineon CYW43439によるWiFiを搭載して6ドルとなった。そして2024年8月、Pico 2が発売された。新チップRP2350はデュアルCortex-M33(150MHz)またはRISC-V Hazard3コアを選択可能で、520KB SRAM、12基のPIOステートマシン、Arm TrustZoneセキュリティを備える。Uptonは「これは私たちがずっと作りたかったチップだ」と述べている。価格は5ドルを維持した。

キーボード一体型:オールインワンPCへの回帰

Raspberry Pi 400(出典元:Raspberry Pi財団Webサイト)

2020年11月、Raspberry Pi 400が発表された。1980年代のホームコンピューターを彷彿とさせるキーボード一体型フォームファクタは、Raspberry Piの原点回帰ともいえる製品だ。Pi 4(1.8GHz高速化版)と4GB RAMをキーボード筐体に内蔵し、70ドル(本体)/100ドル(キット)という価格設定となった。筐体いっぱいに広がる大型ヒートシンクによりファンなしで高クロック動作を維持でき、Holtek HT45R0072キーボードコントローラを採用してRaspberry Pi製品として初めて電源ボタンを搭載した。パンデミック中は自宅学習用デバイスとして、また半導体不足でPi 4の入手が困難な時期には代替品として需要が高まった。

2024年12月にはPi 500が登場。Pi 5ベースで8GB RAMを搭載し、90ドルとなった。基板上にM.2スロットやPoE用部品のパッドが未実装で残されており、発売当時から上位モデルの存在が噂されていた。その噂は的中し、2025年にPi 500+が発売された。16GB RAM(Raspberry Pi史上最大)、256GB NVMe SSD内蔵、Gateron KS-33メカニカルスイッチ(RGBバックライト)を備え、200ドルという価格となった。設計者のSimon MartinとChris Martinは、6回のPCBリビジョン、10回の中国工場出張、「Returnキーの種類を間違えた」3000台のロットを経て、ようやく量産に漕ぎ着けたという。

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Compute Module——組み込み市場を狙った切り札

Raspberry Pi Compute Module 5(出典元:スイッチサイエンス)

Raspberry Piの産業・組み込み用途への進出を加速させたのが、Compute Moduleシリーズだ。2014年4月に登場したCompute Module 1は、SODIMMフォームファクタでSoC、RAM、フラッシュストレージのみを搭載し、ユーザーが独自のキャリアボードを設計して必要なインターフェースだけを実装できるようにした。2017年1月にはPi 3ベースのCompute Module 3が産業顧客からの需要に応えて登場した。

2020年10月のCompute Module 4は、従来のSODIMMフォームファクタを廃止し、より柔軟な2つの高密度コネクタ方式を採用した。RAM容量、eMMC有無/容量、WiFi有無の組み合わせで32のバリエーションを用意し、25ドルからという価格設定となった。公式ブログでは「年間700万台のうち半数以上が産業・商業用途」と明かされ、デジタルサイネージからPLC(産業用制御装置)、医療機器まで、幅広い分野でRaspberry Piが採用されている実態が示された。2024年11月にはCompute Module 5が45ドルから発売された。Uptonによれば、現在販売するRaspberry Piの3分の2以上が産業・組み込み用途に向かっている。

ウェールズで6000万台——ソニーとの製造パートナーシップ

Raspberry Piの製造は、発売からわずか数カ月で中国から南ウェールズのSony UK Technology Centre(Sony UK TEC)に移管された。当初は週1万台の受託製造契約だったが、初年度で100万台を生産するまでに急成長。現在までに6000万台以上のRaspberry Piがこの施設で製造されている。

Uptonは「ウェールズはイノベーションのための素晴らしい場所であり、発売から6カ月以内に生産の大部分をここに移した。ウェールズには産業と製造の誇り高い伝統がある」と語っている。Sony UK TECのSteve Dalton元マネージングディレクターは「Raspberry Piの大量生産は、高度な技術を持つエンジニアと技術者のチームに新しいプロセスの開発とイノベーションの推進を迫った。日本の同僚にもPi製造を紹介し、今では『made in Japan』版のPiも存在する」と述べている。

Sony UK TECはカーディフの西約20kmに位置し、1974年から50年以上にわたりウェールズで操業している。1970年代に当時のチャールズ皇太子(現国王)がソニー共同創業者の盛田昭夫と会談したことがきっかけで、ウェールズへの投資が始まった。2024年7月には、国王がSony UK TECを訪問し、5000万台目のRaspberry Pi製造というマイルストーンを祝った。

ソニーとの協力は、Raspberry Piの設計にも影響を与えている。Pi 5の発売に際し、両社はパッケージングの改善に協力し、製品全体のカーボンフットプリント削減を実現した。Sony UK TECは廃棄物ゼロ方針を採用しており、電子部品のリサイクル、材料の再利用、食品廃棄物の堆肥化など、工場全体の廃棄物ストリームを管理している。2022年からは、同じくウェールズに拠点を置く英国王立造幣局と協力し、廃棄回路基板から金などの貴金属を回収するプログラムも開始した。

ホビイストから産業顧客へ——顧客構造の転換

2018年頃から、Raspberry Piの産業・組み込み用途への販売比率がホビイスト・教育用途を上回り始めた。IPO時点では約72%が産業顧客向けとなっている。この変化は、Raspberry Piの設計思想と供給戦略に大きな影響を与えている。

産業顧客は製品寿命10年以上を前提に設計するため、長期サポートへのコミットメントが不可欠となる。Raspberry PiはPi 5を2038年1月まで製造保証し、主要シリコンについても2040年代初頭までの供給を視野に入れている。後方互換性の重視も同様だ。各世代でフォームファクタ、ピン配置、ソフトウェアAPIの互換性を可能な限り維持しており、Pi 1用に書かれたプログラムの多くは、13年後のPi 5でも動作する。

一方で、この産業シフトはホビイストとの間に緊張を生んだ。2021〜2022年の半導体不足時、Raspberry Piは産業顧客への供給を優先した。ホビイストは正規価格での購入が困難になり、転売価格が高騰した。Uptonは「産業顧客は設計段階で私たちの製品を組み込んでおり、供給停止は彼らのビジネスに直接影響する。ホビイストには申し訳ないが、優先順位を付けざるを得なかった」と説明している。この対応に対する批判は今も残っているが、Raspberry Piはリセラーと需給状態を定期的に共有し、安定供給に向けた取組も強化している。供給が正常化した2023年以降は、Raspberry Piは再びホビイスト市場への注力を強めている。

3Dプリンターから医療機器まで——製品の心臓部に

Formlabs Form 4(出典元:Formlabsプレスリリース)

Raspberry Piは工場の制御システムや研究開発の試作機だけでなく、一般消費者が手にする最終製品の中にも組み込まれている。

3DプリンターメーカーのFormlabsは、フラッグシップ機「Form 4」にCompute Module 4を採用した。Form 4は2つの高解像度ディスプレイとカメラを同時に駆動し、モーター制御、樹脂硬化、温度調整、異常検知などを並行して処理する必要がある。Formlabsはそれまで自社開発のSoM(システム・オン・モジュール)を使っていたが、プロセッサ業界の進化速度と開発コストを考慮し、既製品への切り替えを決断した。Compute Module 4を選んだ理由として、価格性能比の高さ、Yoctoベースの開発環境の扱いやすさ、長期供給への信頼性、そしてドキュメントの充実を挙げている。すでに数万台のForm 4が市場に出荷されており、モジュールの故障率は極めて低いという。Formlabsは「Raspberry Piがメイカーに人気があることは知っていた。産業用途にも適しているか調査した結果、すべての要件を満たしていた」と述べている。

デジタルサイネージの分野では、NECが2016年からCompute Moduleを大型ディスプレイに内蔵している。40インチから98インチまでの業務用ディスプレイにCompute Moduleスロットを設け、空港のフライト情報表示、小売店舗のサイネージ、ファストフード店のメニューボード、企業のビデオ会議システムなどに使われている。ディスプレイ筐体内にコンピューターが収まるため、外付け機器やケーブル配線が不要になり、設置とメンテナンスが大幅に簡素化される。

医療機器の分野でも採用が進んでいる。エジプトのBio Businessは、Compute Module 4とRP2040マイクロコントローラを酸素濃縮器やCPAP(持続陽圧呼吸療法)機器に採用している。同社はPhilips、Siemens、GEといった大手医療機器メーカー向けにOEM製造も手がけており、COVID-19パンデミック時にはエジプト政府の要請を受けて生産を拡大した。医療機器は規制が厳しく、サプライチェーンの安定性が特に重要視される分野だが、Raspberry Piの長期供給コミットメントと充実したドキュメンテーションが採用の決め手となった。

スマートホーム製品でも同様の動きがある。オランダのAthomが開発したスマートホームハブ「Homey Pro」はCompute Module 4を採用している。複数の無線規格(WiFi、Bluetooth、Zigbee、Z-Wave、Thread)に対応しながらコンパクトな筐体に収める必要があり、「ゲーミングルーターのようにアンテナが突き出したデザインにはしたくなかった」という。Compute Module 4の採用により、小型Linuxコンピューターの開発を一から始める必要がなくなり、市場投入までの時間を大幅に短縮できたという。

これらの事例に共通するのは、Raspberry Piを採用する理由が単なる価格の安さではないという点だ。試作段階で使い慣れたプラットフォームをそのまま量産に移行できること、長期供給が保証されていること、世界中の開発者コミュニティによるソフトウェア資産を活用できること:こうした要素が、スタートアップから大企業まで幅広い採用を後押ししている。

採用分野はさらに広がりを見せている。Raspberry Piは「Powered by Raspberry Pi」認証プログラムを通じて、互換性が検証された数百の製品を公開している。シンガポールのClickdriveは公共交通機関向けの運転訓練システムにRaspberry Piを採用し、360度ビデオ録画と運転テレメトリー分析で乗務員教育を支援している。米国のLandmarkはドローン向け精密着陸システムを開発し、センチメートル精度の着陸を可能にした。フィンランドのHat LabsはCompute Module 5を搭載した船舶用航行プラットフォーム「HALPI2」を製品化し、防水ケースに収めたボートコンピューターとして航路計画や船舶自動化に使われている。中国のEDATECはCompute Module 5搭載の産業用AIカメラを開発し、毎秒70フレームの画像処理をIP65防塵防水筐体で実現した。3Dプリンター、医療機器、デジタルサイネージに加え、運転訓練、ドローン制御、船舶航行、産業用カメラ:Raspberry Piの採用領域は、創業者たちの想像をはるかに超えて拡大し続けている。

慈善団体からロンドン上場へ——異例のIPO

画像出典元:Raspberry Pi財団Webサイト

「生涯販売1万台」を見込んで始まったプロジェクトは、12年で6800万台を超える規模に成長した。この成功は、教育慈善団体として始まったRaspberry Pi Foundationに、次なる転機をもたらすことになる。

2024年6月11日、Raspberry Pi Holdings plcはロンドン証券取引所に上場した。初値280ペンスの株価は上場初週の終値で420ペンスに上昇し、時価総額は一時10億ドル(約1400億円)規模に達した。

Raspberry Pi Foundationは2008年設立の教育慈善団体であり、2012年に商業部門としてRaspberry Pi (Trading) Ltdを設立して製品の開発・製造・販売を担当してきた。商業部門の利益は財団に還元され、教育プログラムの資金となり、2024年までに累計約5000万ドル(約70億円)に達した。しかしFoundation CEOのPhilip Colliganは、毎年の利益配当に依存するモデルでは教育プログラムの計画が立てにくいと考えた。「株式の一部を売却し、その収益を運用基金として確保することで、教育活動を長期的かつ安定的に拡大したい」という狙いだ。IPOに伴い、財団は保有株式の一部売却を通じて約1億4千万ポンド(約270億円)規模の基金を設立し、持ち株比率は77.31%から49.08%に低下したが、依然として最大株主であり続けている。

上場先の選択において、Uptonは当初から米国ではなく英国を選んだ。「ニューヨークのファンドマネージャーたちと会った結果、ロンドン上場企業が米国の資金にアクセスできない理由はないという結論に達した。『米国が約束の地』というのは神話に過ぎない」と述べている。ソニーの半導体部門とArm HoldingsはIPO前に戦略的投資を行い、上場後も株式を保持している。

IPOの発表はコミュニティに懸念をもたらした。「上場すれば株主利益が優先され、35ドルの価格維持や教育への姿勢が変わるのではないか」という声だ。Uptonはこれに対し、「私がこの会社を運営している限り、やり方を変えるつもりはない。利益を上げることと意義ある仕事をすることは両立する。疑うなら、見ていてほしい」と応じた。IPO後10カ月で、Raspberry PiはCompute Module 5、Pico 2、Pi 500など、過去最多の新製品を発表し、Uptonの言葉を行動で示した。

これからのRaspberry Pi

Raspberry Pi財団の教育プログラムを通じて、世界中の子供がAIを学んでいる(出典元:Raspberry Pi財団Webサイト)

6800万台を超える販売実績、年間700万台以上の出荷ペース、3分の2以上という産業用途比率ーーこれらの数字が示すのは、教育用コンピューターとして始まったRaspberry Piが、世界有数の組み込みプラットフォームへと成長した事実だ。

自社シリコン(RP2040、RP2350、RP1)の開発により、Raspberry Piは単なるボードメーカーから半導体企業へと変貌しつつある。「私たちは買いたいと思う製品を自分たちでつくる」というUptonの言葉は、半導体設計にまで拡張された。

一方で教育という創業理念は維持されている。IPOで調達した資金は財団の基金となり、世界各地でのCode Club※運営、教員研修プログラム、カリキュラム開発に投じられている。財団は教育活動の50%をこの基金から、残り50%をパートナーシップや寄付から賄う計画だ。

※Raspberry Pi財団が運営する、9〜13歳を対象とした世界的な無料プログラミングクラブのネットワーク

2025年、Raspberry Pi 500+の発売とともに、Raspberry Piは新たな節目を迎えた。200ドルという価格帯、16GB RAM、NVMe SSD内蔵ーーこれはもはや「35ドルの教育用コンピューター」ではない。しかし同時に、4ドルのPico、15ドルのZero 2 Wも併売されている。「コンピューティングを誰もがアクセス可能に」という使命は、製品ラインの幅広さによって実現されている。

※文中の価格はいずれも発売当初の価格です

謝辞

本記事の執筆にあたり、Raspberry Piの公式リセラーであるスイッチサイエンスに監修のご協力をいただきました。
この場を借りて御礼申し上げます。

越智 岳人

FabScene編集長。大学卒業後、複数の業界でデジタルマーケティングに携わる。2013年当時に所属していた会社でwebメディア「fabcross」の設立に参画。サイト運営と並行して国内外のハードウェア・スタートアップやメイカースペース事業者、サプライチェーン関係者との取材を重ねるようになる。 2017年に独立、2021年にシンツウシン株式会社を設立。編集者・ライターとして複数のオンラインメディアに寄稿するほか、企業のPR・事業開発コンサルティングやスタートアップ支援事業に携わる。 2025年にFabSceneを設立。趣味は365日働ける身体作りと平日昼間の映画鑑賞。