マイコンボードや電子部品は、いまではスマートフォンから注文すれば数日で自宅に届く。ところが20年近く前は事情が違った。多くの部品は秋葉原などの電気街まで足を運ばなければ手に入らなかった。数少ないネット通販も、初めて電子工作に触れる人にとっては心理的なハードルが高い場所だった。その入り口を大きく広げた一社が、電子部品やマイコンボードを専門に扱うECサイト「スイッチサイエンス」だ。
始まりは、個人輸入で仕入れて自宅クローゼットに積んだ30個のマイコンボードだった。創業者の金本茂氏と取締役の小室真紀氏に、創業からの歩みを聞いた。
金本茂氏は1966年に生まれ、中高一貫の男子校で電子工作クラブに所属していた。先生はほとんど何も教えず、回路設計に長けた先輩たちから学ぶ環境だったという。早稲田大学理工学部に進むころには、関心はソフトウェアへ移っていた。
「1980年代は、電子技術がものすごい勢いで進歩していた時代でした。だんだん個人レベルでは太刀打ちできない、理解もできないものになってきた感じがあって。その時にソフトウェアの会社に誘われてアルバイトを始めたら、ソフトウェアは個人でもいろいろできたんです。それ以降、ずっと自分はソフトウェアの人間でした」と金本氏は振り返る。
1992年に自身のソフトウェア会社を立ち上げ、2001年には認証ソフトウェアを手がけるアクセンス・テクノロジーを設立した。それでもハードウェアへの未練は消えなかった。自社のソフトウェア製品をハードウェアとして売れないかと考えても、ディスプレイ一つ作れない。横目でハードウェアの世界を眺めながら、寂しい気持ちを抱えていたという。
そんな金本氏が出会ったのが「Arduino」だった。
「ソフトウェアの世界の人間でも扱えるんです。パソコンでコードをカリカリ書いて、ボタン1つで流し込めば、いきなりハードウェアが動き出す。そこにすごく魅力を感じました」(金本氏)
起業前に大学を卒業したばかりの金本氏が最初に就いた職は技術職ではなく営業だった。海外から高額なMac用の機材を輸入して販売する会社で、1台80万円ほどの機材を扱っていたという。輸入販売の実務を間近で見ていた経験が、後にArduinoを個人輸入する際の心理的なハードルを下げた。
「日本とイタリアは、ものの行き来が少ないほうなので送料が高いんです。1個ずつ買っていてはやってられないと思って、『じゃあ30個にしよう』と。それが最初ですね」(金本氏)
知人に頒布するうちに第2陣を注文し、2008年5月にはWebサイトを立ち上げた。注文のたびに個別にやり取りするのが面倒で、ショッピングサイトの仕組みを導入したのだという。事業化の決意があったわけではない。当時は副業のつもりだったと、金本氏は振り返る。
「どの時点でも決意なんて無くて、緩やかに緩やかに進んでいった感じです。当時はソフトウェアの会社(アクセンス・テクノロジー)のほうで食べられていたので、まともな商売にする必要もありませんでした」(金本氏)
事業の起点が「もったいないから多めに買う」という発想だった点に、後のスイッチサイエンスの姿勢がすでに表れている。
クローゼットの在庫が動き始めると、一人では手が回らなくなる。2008年8月、金本氏は自宅近くに小さなオフィスを借りた。きっかけは、かつて金本氏のソフトウェア会社で働いていた知人が、離婚を機に再び働き口を求めて連絡してきたことだった。金本氏はその人を迎え入れ、出荷の現場を任せた。この最初のスタッフが、創業まもないスイッチサイエンスの実務を支えた。
注文は毎年2倍から3倍のペースで伸びていった。金本氏が当時の数字をたどる。
「初年度の売り上げが550万円ぐらい。2年目が1500万円で、その次が3000万円ほど。会社を独立させた2010年の1年間では、9800万円まで増えました」(金本氏)
法人化は2010年1月。きっかけは二つあった。一つは、本業のアクセンス・テクノロジーとの間で、人とお金のやり取りが頻繁になりすぎたことである。もう一つは、金本氏の言葉を借りれば「もともと個人の財布として使っていた会社が、いつの間にか通信販売の表舞台に引きずり出されてしまった」ことだった。
「個人事業の延長線にあった会社で、人をたくさん雇って通販をやるのは、あり方としてよくない。それで独立した法人にしましょうとなったのが、2010年1月でした」(金本氏)
中高時代の電子工作クラブの先輩たちも後に経営に加わった。金本氏より1学年上の先輩だった中村和志氏は取締役として。3学年上だった田口淳一氏は顧問として、現在もスイッチサイエンスに関わっている。田口氏はIT企業経営者として20年以上黒字を維持した能力を活かし、銀行との折衝など資金調達面を担うなど、金本氏の手が届きにくい領域を補っている。
スイッチサイエンスが立ち上がった2008年当時、電子部品をネット通販で買える店はまだ多くなかった。学生として電子工作に触れ始めていた小室氏の目に、スイッチサイエンスのサイトは間口が広く、初めての人にも入りやすいものと映ったという。
金本氏が大切にしてきたのは、まさにその間口の広さである。
「あまり特別なものにはしたくありませんでした。技術に詳しい人にしか注文できないようなサイトではなく、ちょっとした知識があれば欲しいものが注文できる。そこは大事にしたいと思っていました」(金本氏)
誰もが手を伸ばせる状態をつくる。最初に選んだ商材がArduinoだった事実とあわせて、この思想が会社の輪郭を決めていった。
急成長の裏側は、住所を転々とする日々だった。最初に借りたオフィスは約18平方メートル、ビジネスホテルのシングルルームほどの小さな部屋で、1年ほどで手狭になった。次に移ったのは、金本氏が住んでいたマンションの別フロアにある、約37平方メートルの一室だった。日当たりの悪い部屋だったが、商品の日焼けが防げるという意味では、ECサイトにはうってつけだった。
増え続ける在庫は居室を容赦なく埋め尽くし、浴室にも運び込んだ。シャワーから水が出ては大変なので養生して口を封じ、毎日届く在庫を積み上げたという。小室氏は大学在学中だった2009年ごろからアルバイトとして加わり、2012年に正式に入社した。当時の混乱をこう振り返る。
「小さな部屋でやっている時が、一番てんやわんやしていました。発送件数が毎日のように増えていって、狭い部屋にたくさんの人がいて」(小室氏)
住所が変わるたびに在庫も人も増え、現場は走りながら態勢を整える。そんな中で海外との取引には独特のトラブルもあった。創業間もない時期、海外の工場から届く荷物の中には、トイレで保管していたのかとしか思えないくらいひどい悪臭を放つ段ボール箱で届いた事が何度もあったという。
やがてその部屋もあふれ、移転先に選んだのが、旧練成中学校を改修したアートセンター「アーツ千代田3331」だった。アートに関わる施設という選考基準に、電子工作を文化として位置づけることで滑り込んだ。最終的には2部屋半ほどを借りるまでに拡大している。
クローゼットの30個から数年で年商は1億円に迫り、2013年には年商3億円に到達。2013年から2017年ごろのメイカームーブメントも追い風となった。ブームが去ってからといって売上が落ちることはなく、後述する半導体不足のあおりを受けた時期を除けば、業績は右肩上がりのまま続いている。
急成長のさなかでも、金本氏が守り続けた原則がある。在庫があるものだけを売る、という姿勢である。
「注文すると、すぐ届くように書いておきながら、実際は在庫切れ。『これから仕入れます』というECサイトもありました。自分が客の立場だったら、嫌な気持ちになることはしたくなかった。だから、在庫があるものだけを売る。それが当時の自分たちにできる、お客さまの役に立つやり方でした」(金本氏)
とはいえ品薄の商品をどう扱うかは、いまも悩みの種だと小室氏は明かす。例として挙げたのが、取材時点で品薄だったAIデスクトップロボット「M5 スタックチャン」だった。
「スタックチャンは待っている人がたくさんいるのに、なかなか入ってこない。入荷した瞬間に早い者勝ちになってしまうんです。いま欲しいと思っている人も、3カ月後には熱が冷めてしまうかもしれない。その気持ちを萎えさせない方法はないか、とずっと考えています。注目してくれている時は、その人がものづくりに踏み出すきっかけの一つだと思うので、モチベーションを刈り取りたくないんです」(小室氏)
ビジネスの機会を逃さないという発想ではなく、これから作り始める人の芽を摘みたくない、という立ち位置で品薄を語る。そこにスイッチサイエンスらしさがにじむ。小室氏は、最初に働き始めた会社が同社であり、仕事に対する考え方は金本氏がモデルになったと話す。
スイッチサイエンスは、純粋な通販の枠を超えた取り組みもしてきた。アーツ千代田3331では、オフィスの一角を就業時間後に開放した「はんだづけカフェ」を運営していた。当初ははんだごてが3台あるだけだったが、利用者やメーカーから道具が寄贈され、ツールを共有する文化が育った。ものづくりの共同作業スペースがまだ珍しかった時代の場づくりで、2016年まで続いた。
基板製造を仲介するPCBサービスも手がけた。当時、基板を海外に発注すると、見積書や納品書、請求書が出ないという問題がつきまとった。経費処理にこれらの書類が欠かせない学校法人や企業からの要望を受けて、中国のSeeed Studioと組み、スイッチサイエンスが日本の会社として書類を発行する仕組だ。
「うちを経由すれば見積もりや請求書が出せるから便利だよね、という声があったんです。日本語でのやり取りはこちらで引き受けて、中国のSeeedとは英語でやり取りして。ただ、そこがすごく煩雑になってしまって。手間がかなりかかっていました」(小室氏)
注文が多かった一方で、代理店としての事務負担の大きさから、サービスは2019年に終了した。今日のようにPCB基板を安く手軽に発注できるサービスが普及する前の、橋渡し役を担った取り組みだった。現在はIoT開発協力事業として、ハードウェア開発にも進出。フィットネスジムの施錠システムや電子楽器、拡張ボードの開発など多様なニーズに応えている。
製品に日本語ドキュメントを付けたキットづくりも、スイッチサイエンスの特色である。出発点は、書籍「Arduinoをはじめよう」の内容をほぼ実践できるキットだった。出版元のオライリー・ジャパンに相談したところ、明確な許可ではないものの事実上黙認される形となり、以降のキットの原型になった。
「これを買えばこれができます、ではなくて、これを買えばいろんなものが作れますよ、という方向性を大事にしています。あなたの発想に合わせて応用が利く、というキットを作ろうとしているんです」(小室氏)
2017年には子会社スイッチエデュケーションを設立。イギリス生まれの教育向けマイコンボード「micro:bit」を扱うにあたり、電波を出す機器に必要な日本の認証である技適を取得する前の段階で、互換機「chibi:bit」を開発し、国内で使えるようにした経緯がある。出産を機に教育へ関心を深めた小室氏が中心となったが、教育市場と既存の顧客層は性格が大きく異なった。
「スイッチサイエンスのお客さまは、使い方を説明しなくても自分で調べられる人たちです。教育のお客さまは、ゼロから全部教えてほしいという方が多い。先生向けの講習で、初めてマウスを使いましたという人もいたほどでした。商品の作り方も売り方も違うので、会社を分けたほうがいいとなったんです」(小室氏)
20年近い歩みを貫く判断軸を、金本氏は飾らない言葉で表す。
「あんまり戦略はないんですよ。本当に行き当たりばったりで。その時々で売れるもの、必要とされるものを扱う。個人輸入ではうまくいかない分野で、お客さんの役に立てるならやろうかな、ぐらいで。どこにでもある商品をわざわざ扱って競合他社と戦うのは、やりたいことではないんです」(金本氏)
足元の環境は厳しさを増している。新型コロナウイルス感染拡大の後に起きた半導体不足では、限られたチップが自動車などの大口需要に回され、個人向けの商品が手に入りにくくなった。需要があるにもかかわらず売るものが無い状況で、1年弱ほど業績が伸び悩んだ時期があったという。
落ち着いたと思えば、今度はメモリの高騰である。Raspberry Piに使われるLPDDR4というメモリの価格は、2025年からの1年で7倍に跳ね上がった。かつて35ドルで始められる、誰もが安価に手にできるコンピューターの象徴とされたRaspberry Piは、2025年12月以降、立て続けに値上げを迫られている。
「ラズパイがこんなに高くなるとは想定していませんでした。我々も粗利を抑えるなどの工夫をしていますが、Raspberry Pi財団も利益を圧縮して値上げを抑えようとしています。それでも追いつかなくて苦労しています」と金本氏は内情を明かす。
こうした市況の変化はありつつも、ものづくりを始める人たちに寄り添う姿勢は創業から変わらない。これからものづくりを始める人たちへ、金本氏はこう言葉を選ぶ。
「やりたいことを全部やってみたらいいんじゃないかと、いつも思っています。火事さえ出さなければ、命に関わることをしなければ、何でもいい。たいていのものはそんなに高くないので、いろいろやってみるといいんじゃないかな」(金本氏)
小室氏は、AIが何でも教えてくれる時代だからこそ、手を動かす価値が増していると考えている。
「何でも教えてくれるからこそ、作った人のほうが強いと思います。私は未踏ジュニア※のメンターをしていますが、今年はほぼ全員がAIでプロトタイプを作ってくる。だからこそ、作っていない人は逆に悪い意味で目立つーーそういう時代になりつつあります」(小室氏)
※一般社団法人未踏が実施する 17 歳以下の小・中・高校生を対象とした人材育成プログラム
Arduinoのみから創業して20年近くが経ち、現在扱う商品はおよそ4000点が常に動いている。客層は昔から大きくは変わらず、やや高齢化が進む一方で、前述のスタックチャンに代表されるようなM5Stack関連商品をきっかけに若い層や女性が少しずつ増えてきた。その一方で量子コンピューターや100万円台の二足歩行ロボットなど、最先端の製品も扱う。
クローゼットの30個から始まった会社は、誰もが電子部品に手を伸ばせる時代の土台を、静かに築いてきた。特別なものにしたくなかったという最初の願いは、いまの当たり前のなかに溶け込んでいる。