わさびといえば、静岡の伊豆や長野の安曇野、東京の奥多摩など、山奥の清流で栽培されるイメージが強い。ところが新横浜駅から徒歩10分という都市部で、日本最高級とされる「真妻わさび」が栽培されているという。一体どんな場所で、どのように育てられているのか。実際に現地を訪れて分かったのは、伝統的な作物を支える最新技術の存在だった。
コンテナで育つ1800株(約360万円分)の最高級わさび

向かったのは、新横浜の企業が立ち並ぶオフィス街。指定された住所に着くと、そこは大手半導体商社マクニカの本社敷地内。目の前にあったのは一見すると普通の物流用コンテナだった。「本当にここでわさびが?」と半信半疑になりながらコンテナの扉を開けると、想像を遥かに超える光景が目に飛び込んできた。
真っ白で清潔感あふれる室内に、5段の栽培棚が整然と並んでいる。各段には緑豊かなわさびがびっしりと植えられ、上部のLED照明が幻想的に葉を照らしている。まるでSF映画に登場する宇宙ステーションの植物栽培施設のようだ。映画「オデッセイ」で宇宙飛行士を演じたマット・デイモンが、火星でじゃがいも栽培をしていたシーンを思い出す。
「手袋と白衣を着てください」とスタッフの方に案内された。衛生管理が徹底されているのだという。コンテナ内部は栽培室と管理室に分かれており、栽培室だけで約1800株ものわさびが育てられている。

栽培室に入るとひんやりと涼しく、畑の中に入るような匂いがする。
「この1800株で、高級寿司店2店舗の1年分のわさびを賄えるんです」とフードアグリテック事業担当の野川さんが説明してくれた。確かにこれだけの量があれば、相当な供給量になりそうだ。しかし、なぜ山奥ではなくコンテナなのか。
「葉っぱも食べられるんですよ」と言われ、栽培中のわさびの葉を摘んで口に含んでみた。正直、期待していなかった。ところが口の中に広がったのは、クレソンのような爽やかで上品な味わいだった。噛み続けていると、ほのかな辛味が後からやってくる。
「これ、美味しい!」

思わず声が出てしまった。わさびといえば根の部分しか頭になかったが、葉っぱがこんなに美味しいとは想像もしていなかった。わさび産地では葉の醤油漬けが土産物として売られているが、生で食べるのは初めて。
「露地栽培だと収穫時に葉がなくなってしまうんですが、植物工場では定期的に剪定するので葉も大量に収穫できるんです」
なるほど、それで普通は市場に出回らないのか。改めてコンテナ内を見回してみる。当たり前だが、どこにも土がない。わさび田といえば静岡の伊豆半島にあるような、山の斜面を流れる清流を思い浮かべるが、ここにあるのは白いプラスチックの栽培トレーと、パイプを流れる栄養液だけだ。
「水耕栽培なので、土は一切使いません。栄養分を溶かした水を循環させて育てています」
よく見ると、各栽培段の端からパイプが伸びており、ポンプによって水が循環している仕組みになっている。山の清流の代わりに、人工的な水の流れでわさびを育てているのだ。
さらに驚いたのは、このコンテナが完全に密閉されていることだ。外の空気は入ってこない。それなのに、わさびは元気に成長している。

「温度も湿度も、すべて人工的にコントロールしています。だから天候に左右されることがないんです」
確かに、台風が来ようが猛暑が続こうが、コンテナの中は完全に独立した環境だ。これなら安定してわさびを栽培できそうだ。でも、なぜわざわざそんなことをするのだろうか。
このコンテナ型わさび工場を運営しているのは、半導体商社のマクニカとアグリテックベンチャーのNEXTAGEだ。一見すると畑違いの組み合わせに思えるが、両社は2023年初頭に資本業務提携を結び、このプロジェクトを推進している。
NEXTAGEは「真妻種」発祥の地である和歌山県の旧真妻村を訪れ、わさび田の荒廃を目の当たりにしたことをきっかけに、わさびの自動栽培ソリューションの開発に取り組んでいるアグリテックベンチャーだ。一方のマクニカは、半導体やIoT技術を核とするサービス・ソリューション企業で、50年以上の歴史を持つ。
マクニカが出資し、NEXTAGEが開発したわさび栽培モジュールをマクニカが代理店として販売する。そして販売前にオペレーションを理解し、さらなる改良をするため、マクニカが第1号機を購入して自社で栽培実験を行っているのが、今回訪問したコンテナ工場というわけだ。
24ヶ月を12ヶ月に、さらに6ヶ月も視野に

では、なぜこうした取り組みが必要なのか。その背景には、日本の伝統的なわさび栽培が直面する深刻な課題がある。
今回栽培されている真妻わさびは、和歌山県の旧真妻村(現・印南町川又)を原産とする品種だ。市場で多く流通する他の品種と比較して、栽培に20〜24か月という長期間を要する一方で、粘り、うまみ、香りが格段に優れているとされる。しかし近年の気候変動や温暖化により、適切な栽培環境を維持することが困難になっている。
わさび栽培には、一定の水温と清浄な水が不可欠だ。夏場の気温上昇や台風の頻発により、露地栽培では安定した生産が難しくなっている。さらに農業従事者の高齢化と減少も深刻で、伝統的な栽培技術の継承が危ぶまれている。
「10年後には自然界でわさびを作るのは難しくなるかもしれない、と言われています」とマクニカでフード・アグリテック事業を統括している栗本氏は危機感を語る。実際、連日報道される異常気象により、各地で農作物の被害が続出している。従来の露地栽培だけでは、安定した食料供給の維持が困難になりつつある。こうした状況下で、高級料理店からは高品質な真妻わさびの安定供給への要望が強まっている。
NEXTAGEが開発したわさび栽培モジュールの最大の特徴は、栽培期間の大幅な短縮だ。露地栽培では20〜24か月かかる真妻わさびの栽培を、約12か月まで短縮することに成功している。
「現在は12か月まで短縮していますが、さらに6か月を目標にしています。栽培期間が半分になれば売上は倍になり、投資回収期間も大幅に改善されます」(栗本氏)
この短縮を支えているのが、精密な環境制御技術だ。LED照明は植物の成長に最適な波長に調整されている。また今後は、従来のPWM(パルス幅変調)制御ではなく、電流制御により植物にとってより自然な光を提供できるよう改良していく予定だ。照明の点灯も、朝の自然光のように徐々に明るくなるような制御も計画されている。
「人間も朝いきなり電気をつけられるとストレスになりますよね。植物も同じで、自然な光の変化を再現することで、より健康に育ちます」(栗本氏)
工場内を見回すと、至る所に小さなセンサー類が設置されているのがわかる。温度、湿度、CO2濃度を測定するセンサーが設置されており、今後は水の流れを監視する水流センサー、ポンプの動作状況を把握する振動センサーなどの追加など、多種多様なIoT機器が24時間体制でデータを収集している。
「水耕栽培では水の循環が止まると植物が枯れてしまいます。ポンプの故障や配管の詰まりを早期に発見するため、センサーで常時監視することで運用の自動化を目指しています」(栗本氏)
収集されたデータはLoRaWANというプロトコルでクラウドに送信され、遠隔地からでもリアルタイムで状況を把握できる。エアコンの温度調整やポンプのオンオフなども、赤外線通信を使って遠隔制御が可能だ。
栽培棚の上部には、通常のRGBカメラに加え、距離を測定するToF(Time of Flight)センサーや近赤外線センサーも追加設置するとのこと。これらのセンサーにより、葉の大きさや厚み、内部の状態が把握できるという。
「AIが画像解析により葉の成長状況を判定し、またハイパースペクトルを用いれば、葉に含まれる化合物の組成も知ることができます。それらによって植物の成長モデルを作ることができます」(栗本氏)
マクニカが持つ半導体技術とIoTソリューションが、従来の農業に新たな可能性をもたらしている。同社は「サイバーフィジカルシステム(CPS)」という概念のもと、現実世界のデータをデジタル空間で分析し、フィードバックする仕組みを構築している。
「空気、水、光といった栽培環境のデータを収集し、蓄積・解析してフィードバックする。工場DXで使われているソリューションを農業分野に転用しています」(栗本氏)
収集されるデータは環境情報だけではない。RGB画像による葉の成長状況、ToFセンサーによる3D形状、近赤外線による化合物分析など、多角的な生体情報も取得していく予定だ。これらのデータを大学が持つ研究データと照合し、AI分析により最適な栽培条件を導き出したいと考えている。
マクニカでは、わさび栽培モジュールから収集した温度や湿度などの環境データを生成AIに入力し、有名な植物工場研究者の論文データと組み合わせて分析する実験も行っている。「わさびの収穫サイクルをより短くするにはどうしたらいいか」といった質問を投げかけると、世界中の研究知見をもとにした改善提案が得られる状態にしたいという。複数の専門家をAIエージェント化し、それぞれの見解を総合的に判断させるマルチエージェント手法も試している。まだ実験段階だが、このような技術により栽培レシピの最適化が期待される。
特に注目されるのが、味の最適化への取り組みだ。高級寿司店の料理長へのヒアリングも行っており、理想的なわさびの味を「最初に甘味があり、3秒後に上品な辛味と香りが立つ」と定義している。この味を実現するために必要な成分と、それを生み出す環境条件を科学的に解明しようとしているのだ。
宇宙でも故郷の味を、技術が守る食文化

このプロジェクトは、単なる新技術の実証実験を超えた意味があると感じた。気候変動により農業環境が悪化する中、安定した食料供給を維持するための技術として期待されている。わさびは日本の食文化にとって欠かせない存在だが、その栽培が危機に瀕している現実がある。米の価格高騰が示すように、私たちが当然だと思っている食材が手に入らなくなる可能性は、米に限ったことではない。
一方で、植物工場ビジネスには大きな課題もある。わさび栽培モジュールの販売価格は公表されていないが、一般的な植物工場では10~15年の投資回収期間が必要だという。実際、過去30年間でレタスなどの葉物野菜を対象とした植物工場は数多く立ち上がったが、採算性の問題で撤退する企業が相次いだ。エネルギーコストの高さや初期投資の大きさが主な要因だった。「植物工場は儲からない」というイメージが定着してしまったのも事実だ。
「だからこそ、栽培期間の短縮が非常に重要なんです。期間が半分になれば売上は倍になり、投資回収期間も大幅に改善されます」と栗本氏は強調する。ここ10年でLEDの価格が下がり、AI技術も発達したことで、ようやく採算ラインが見えてきたという。
「ゲノム編集技術は確立されていますが、市場の受け入れにはまだ時間がかかります。しかし食料不足が深刻化すれば、暑い環境でも育つ作物を食べざるを得ない時代が来るかもしれません」と将来への危機感を語る。
コンテナ型植物工場は、こうした課題に対する一つの解答となる可能性を秘めている。日本の伝統的な食文化を守りながら、最先端技術により新たな農業の形を提示する。マクニカとNEXTAGEの取り組みは、まさに「温故知新」を体現したプロジェクトといえるだろう。
新横浜のコンテナで育つ真妻わさびは、日本の農業の未来を占う重要な実験でもある。技術の進歩により、いつの日か宇宙でも故郷の味を楽しめる日が来るかもしれない。
ちなみに誰もが気になるわさびの使い道だが販売用には栽培していないそうで、一般の市場に出回ることはない。その代わりに展示イベントで試食ブースを設けたり、近所の寿司屋で取引先と接待する際に、寿司職人さんにお願いして使って貰っているらしい。なんだか、それはそれでうらやましい。そして、この原稿を書いているときに、センサーや技術の話ばかりに集中しすぎて、わさび本体を試食することを忘れていたことに気づいたのだった。
取材協力:マクニカ