自作キーボードの聖地「遊舎工房」買収の経緯を訊くーー急成長ゆえの課題と、これからの可能性

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キーボードのDIYやカスタマイズを楽しむ「自作キーボード」。市場はここ数年で拡大し、即売会では2000枚の入場チケットが完売になるなど、熱狂的なムーブメントとなりつつある。

その自作キーボード界隈で「聖地」と呼ばれる企業が遊舎工房だ。2018年の法人設立以来、自作キーボードのキットやパーツの販売を中心に事業を展開。秋葉原の店舗とECサイト中心に成長を続けてきた。順風満帆に見える同社だったが、2025年3月に嘉穂無線ホールディングス(以下、嘉穂無線HD)とのM&A(企業同士の合併・買収)を発表した。

嘉穂無線HDは、福岡を中心にホームセンター「グッデイ」を運営するほか、電子工作キット「エレキット」で知られるイーケイジャパン、電子部品専門店のカホパーツセンターなどを傘下に持つ企業グループだ。

両社の買収の背景には、急成長が招いた経営者としての深い悩みがあった。遊舎工房の元代表取締役で現在は顧問を務める倉内誠氏と、倉内氏から遊舎工房の経営を引き継いだ嘉穂無線HD代表取締役社長の柳瀬隆志氏に、買収の経緯と今後の展望を聞いた。

目次

想定外の急成長がもたらした悩み

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遊舎工房店内の様子所狭しと自作キーボード関連商品が並ぶ店内は海外からの観光客にも人気だ

——まず、遊舎工房がM&Aに至った経緯を教えてください。

倉内氏:遊舎工房は2018年に自作キーボードのお店として創業しました。私たちはコミュニティと一緒に成長していくことを当初から運営方針に掲げていて、これまでもお客様から新商品の企画・開発に関する相談などを受けるなどしていました。そうして、お客様と店舗という関係ではなく、コミュニティを育むことに注力してきました。

そうした取り組みに加え、メディアからも注目が集まったことで順調に拡大したのですが、キーボード市場の今後の方向性や期待値について、「創業時から、少しぶれ始めてきたのではないか」という気持ちを抱くようになりました。

元々は自作キーボードの専門店として、完成品を売らないというポリシーでやっていたのですが、コロナ禍以降に海外からのお客様が増えた際に、「これって作らないといけないの?」という反応をされることが増えたんですね。

完成品の需要はわかっていたのですが、普通のキーボード屋になってはいけないという思いから、意固地になってやっていませんでした。しかし、そういった声が増えてきたことで、機会損失になっていることを危惧し、完成品も扱うようになりました。

——海外からのお客様も多いんですね。お店での反応はいかがですか?

倉内氏:海外のRedditという掲示板やDiscordのサーバーなどで当店が度々紹介されて、「日本に来たら、遊舎工房に訪れたい」という声もよく見かけました。一度にガッツリ買われる方も多く、何日かに分けてたくさん買われる熱心な方もいらっしゃいます。「自分たちの国にも、こういう店がほしいよ」と皆さん仰ってますね。

自作キーボードという市場がこれほどの規模になることも想定外でしたし、店舗が賑わうだけでなく、海外からもわざわざ来る方がいることも創業時は全く想像できませんでした。

——一方で、急成長がもたらした課題もあったのですね。

倉内氏:事業拡大に伴ってスタッフも増えた結果、私1人でコントロールできる範囲を超え、一人ではマネージメントしきれない状況になりました。

運営上の課題が積み重なり、さまざまな道筋を考える中で、会社経営に長けた方にバトンタッチしたほうが、今後の成長につながるのではないかという結論に至ったんです。

——遊舎工房が倉内さんの想定を超えて、急成長を果たした理由は?

倉内氏:時流に乗ったというのが大きいですね。市場の拡大に伴って、自作キーボードという枠の中で新しい取り組みをしたい人たちが増え、それなりにヒット商品生み出せました。その結果として、自分でも想定しなかった規模まで会社が大きくなりました。

思いがけずキーボード沼にハマって、買収が決定

——本格的にM&Aを検討されたのはいつ頃からですか?

倉内氏: 少し前からM&Aの仲介会社に相談していましたが、嘉穂無線からコンタクトがあったのは、2024年10月でした。

——柳瀬さんは、どのような経緯で遊舎工房の案件を知ったのでしょうか?

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嘉穂無線HD代表取締役社長の柳瀬隆志氏

柳瀬氏:M&Aを仲介する会社からいろいろな業種・規模の案件の提案が来るのですが、正直あまり興味のある話が来ることは、これまでありませんでした。ただ、遊舎工房は当社グループ会社のイーケイジャパンと関連性があるということで紹介があり、たまたま目に留まったんです。

確かに当社の祖業であるカホパーツセンター※1と似ていて、イーケイジャパン※2やデジクラ※2とシナジーが発揮できそうな企業だったんですね。そこで興味を持ちました。

※1・・・福岡市中央区にある嘉穂無線HD傘下の電子パーツショップ。嘉穂無線HDの祖業である家電専門店「デンキのカホ」内の電子パーツ売り場がルーツ。2000年にスピンアウトし独立したが、2023年に再度嘉穂無線HDが買収している。
※2・・・「ELEKIT(エレキット)」というブランドで電子工作キットや電子ホビー商品などを製造・販売する企業。
※3・・・嘉穂無線HD傘下のホームセンター「グッデイ」の店舗内にあるメイカースペース。嘉穂無線HDは2014年から2024年にかけてメイカースペース「ファブラボ太宰府」を運営し、そのノウハウを引き継ぐ形でデジクラをグッデイに展開した経緯がある。

——柳瀬さんは自作キーボードについてはご存じでしたか?

柳瀬氏:全然知らない世界でした。まずはお話を聞いてみようと思い、仲介会社経由で倉内さんと初めてお会いしました。

秋葉原の店舗に行くと、インバウンド観光客も含めて、いろいろな方で賑わっていたのが印象に残りました。「こんな世界があるのか、面白いな」と思いましたね。

そこで倉内さんに「どの商品がおすすめですか」と聞いて、早速自作キーボードをいくつか買って帰り、自分ではんだ付けして作ってみました。

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柳瀬氏が遊舎工房訪問時に購入した分割キーボード

倉内氏:柳瀬さんはアクションが早い方だなと思いました。初めて会ったその日に、買って帰られて。それからも次から次へと購入されていたので、この人だったら安心してお譲りできるのではと思いました。実際に買収が決定したのは2025年3月です。お会いしてから最速での成立だったと思います。

——嘉穂無線HD社内の反応はいかがでしたか?

柳瀬氏:社内的にも興味を持つ人が多く、私同様に既存事業とのシナジーがあるという感想が大半でした。たまたまイーケイジャパンの社員にも自作キーボードを長年やっている人がいたりして、社内の受け入れは非常にスムーズでした。

先日、社内販売で遊舎工房のキーボードを買う人を募集したところ、20人弱ぐらい応募があったんです。もちろん、自分でハンダ付けしている社員もいます。私たちはものづくりの会社なので、その辺はすごく親和性があるなと感じています。

——ビジネスとして電子工作やデジタルファブリケーションに取り組んできた柳瀬さんから見て、自作キーボードの市場はいかがですか?

柳瀬氏:デジタルファブリケーションは「何でも作る」という文脈なので、見方を変えるとクリエイターの選択肢が広すぎて迷いがちになることがあります。

一方で自作キーボードは範囲が具体的でバリエーションも豊かという特徴があります。また実用性があるのも大きいですね。私もついたくさん買ってしまうのは、絶対使うからなんです。

3、4台あっても全部使っているし、キースイッチとキーキャップの組み合わせでも使用感が変わるし、新しい製品もどんどんできています。進化の度合いも早いし、実用性もある。程よい範囲の広さと深さが両立している世界だと思います。

コミュニティを守りながら、地方へ輪を広げる

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カホパーツセンター内の自作キーボードコーナー

——買収から約3カ月が経ちましたが、変化はありますか?

柳瀬氏:まだ3カ月ちょっとなので、変化が感じられるのはこれからですね。最近、嘉穂無線HDから出向した社員も着任したので、これからいろいろ皆さんと相談しながら進めようと思っています。

倉内氏:グループ間の横のつながりも含めて、客観的な視点で話を進めている最中です。グループとして何ができるかという議論も進めています。

——ユーザーから見える部分では、どのような改善を進めていく予定ですか?

倉内氏:説明書(ビルドガイド)やパッケージは、イーケイジャパンのノウハウも活用してもう少ししっかりしたものを作る必要があると感じています。

製造面でも部品の仕入れでカホパーツセンターのノウハウを活用し、共同で購入するなどして、よりスムーズに調達できるようになると思います。嘉穂無線HD傘下に入った後、私は顧問として関わっていますが、新しい体制での展開に期待しています。

——柳瀬さんは今後、遊舎工房をどのようにしていきたいとお考えですか?

柳瀬氏:リアル店舗があることで、自作キーボードコミュニティの総本山的な位置づけになっている点が最も素晴らしいと思っています。自作キーボードのいろいろな情報や部品が集まる立ち位置は守っていきたいと思います。

コミュニティは拡大の余地があります。福岡でも自作キーボード専門店は無かったのですが、先日からカホパーツセンターで遊舎工房の人気商品の取り扱いをスタートさせたばかりです。今後は福岡での事業展開を見守りながら、東京以外の地方にも拡大していく仕組み作りを進めていく予定です。

基本的には今までの世界観を壊さないように、大切に育てていきたいと思っています。これまで遊舎工房が大事にしてきた世界観やコミュニティ、完成品だけではなく自作にこだわった商品展開を守りながら、コミュニティベースで地域の人たちと一緒にキーボードマーケットを育てていくスタンスで経営したいと思います。

——日本各地での展開もさることながら、外国人観光客の人気を考慮すると海外展開もありえると思うのですが

倉内氏:海外通販は現在もやってはいるのですが、海外のものを仕入れて販売する場合、海外から直接買った方が送料の面でメリットがあるため、なかなかうまくいっていません。

また、日本の「自作キーボード」と海外の「カスタムキーボード」は成り立ちやトレンドが異なります。例えば日本は分割キーボードが流行っていますが、海外では一体型キーボードが主流なんですよね。

ただ、打ち手が無いわけではありません。グループバイ※で日本のクリエイターが作ったキーボードを日本と海外で販売した際、全部で300台のうち国内で50台、海外で250台売れました。国内で作ったものを海外で売れるという結果は出ているので、海外展開についてはそれほど悲観的に考える必要はないと思います。

市場の特性に違いはあっても、グループバイでの実績を見る限り、日本発の自作キーボードに対する海外の需要は確実にあります。M&A前はリソースの問題から取捨選択せざるを得ない場面が多々ありましたが、グループ全体で自作キーボード事業に取り組めば、これまで後手に回っていたことにも取り組めると思います。

※グループバイ(Group Buy)・・・事前払いによる一定の注文が集まってから生産する仕組。クラウドファンディングと性質が近く、プロジェクト自体が頓挫するリスクもはらんでいる。少量生産や受注生産の多い自作キーボードの世界ではポピュラーな流通手段


自作キーボード市場の創世記の中心的存在だった遊舎工房。急成長ゆえの課題はあったものの、個人のものづくりをビジネスとして展開してきた嘉穂無線HDによる買収は理想的な出会いと言えそうだ。

記事でも両氏が言及したように、グループ間での連携も始まり、地方への展開も視野にある。秋葉原の小さな店舗からスタートした遊舎工房は、次のステージに向けて歩みを進めている。

写真提供:嘉穂無線ホールディングス、遊舎工房

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FabScene編集長。複数のエンタープライズ業界でデジタルマーケティングに携わる。2013年にwebメディア「fabcross」の設立に参画。サイト運営と並行して国内外のハードウェア・スタートアップやメイカースペース事業者、サプライチェーン関係者との取材を重ねる。

2017年に独立。編集者・ライターとして複数のオンラインメディアに寄稿するほか、スタートアップ支援事業者の運営に携わる。スタートアップや製造業を中心とした取材実績多数。

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