肌に当てると温かさと冷たさが同時に伝わり、引っかいたときのような刺激だけが残る——そんな触覚の錯覚を起こすデバイスが「ThermoScratch(サーモスクラッチ)」だ。
開発したのは、それぞれ異なる分野の研究者が集まった大阪大学発スタートアップ、大阪ヒートクールだ。
2023年にKickstarterで挑んだクラウドファンディングは目標未達に終わったが、それから3年を経て、2026年7月からKibidangoとGREEN FUNDINGで再挑戦している。記事初出時点で、目標金額200万円に対して200%を超える支援が集まっている。
一度散ったプロジェクトは、なぜここまで来られたのか。大阪ヒートクール代表取締役の伊庭野健造氏と、CES会場での出会いから伴走してきたKibidango(きびだんご)の松崎氏に、再起までの3年間を聞いた。
取材に先立ち、きびだんごのオフィスでデモ機を試した。
Tシャツの襟首が肌に触れるあたりに、強度4段階の最大で当てる。温かさを感じると同時に、ひんやりとした感覚が後から追いかけてきて、やがて引っかいたときのような小さな痛みに変わる。
ところが当てた箇所を見ても、跡はまったく残っていない。アルコールアレルギーがあり汗にも弱い筆者にとって、肌を傷つけずに「掻いたような感覚」だけを得られる体験は、確かに一定のメリットとして実感できた。今まで経験したことのない触感を製品化した伊庭野氏の専門は医療や触覚かと思いきや、それらとは縁遠い核融合である。その研究者がかゆみに向き合うことになったきっかけは、自身の子育てだった。
「私自身はかゆみを気にせず掻いてしまうタイプなのですが、自分の子どもとなると話は別でした。作り始めたのは2021年、子どもが2歳の時です。親として深刻だと感じて開発を決めたものの、当時は大学教員で、分からないことだらけの手探りでした」と伊庭野氏は振り返る。
大阪ヒートクールは2020年設立。熱、材料、電気、知覚、無意識という5分野の研究者である大学教員が集まったスタートアップで、ペルチェ素子を研究する菅原徹氏(京都工芸繊維大学教授)も取締役に名を連ねる。ペルチェ素子とは、直流電流で冷却と加熱を制御できる半導体素子のことだ。
「『ペルチェ素子で新しいものを作ろう』と声をかけ合って集まったのが創業メンバーです。ただ、最初は何を作るか決めないまま始まりました。研究で使うペルチェ素子は1個5000円ほどして、これが本当に商品になるのかと思っていたのですが、量産すれば1個1000円以下まで下がると分かり、驚きました。それなら何とかなるのではないかと」(伊庭野氏)
各メンバーの専門知識を持ち寄り、「ああでもないこうでもない」と言いながら開発を進めてきた。菅原氏自身は肌の曲線に追従するフレキシブルなペルチェ素子や温度分布の制御といった先端研究に取り組んでいるが、製品としてのThermoScratchはあえてシンプルな構成に絞ったという。
「会社を始めて社会実装を本気で考えたとき、難しいことをやるのではなく、シンプルな技術をどこまでプロダクトに仕上げ切るかが大事だと学びました。やりたいことはまだまだありますが、まずミニマムな形で作り、社会のニーズに応えられるのかを試そうと、仕様を絞って開発したのが今のThermoScratchです」(伊庭野氏)
ThermoScratchが利用するのは「サーマルグリル錯覚」と呼ばれる感覚現象だ。人の皮膚には温かさと冷たさをそれぞれ検知する受容体があり、危険のない範囲の温刺激と冷刺激を同時に与えると、信号が脳へ伝わる過程で混ざり合い、単なる温冷とは異なるピリッとした強い感覚として知覚される。現象自体は1994年にScience誌に掲載された論文でも知られる、神経科学の分野では古典的なテーマである。
だが「知られている現象」と「手のひらサイズの製品」の間には大きな距離があった。その隔たりについて尋ねると、最初に返ってきたのは「一番苦労して、一番楽しんだポイントです」という言葉だった。苦労と楽しさを同じ息で語るところに、ビジネスとしてだけでなく、作ること自体を面白がるMakerとしての気質が滲む。
「最初から、子どもが使えるものにしたいという思いが強くありました。子どもが持っていて不自然ではないサイズに落とし込みたい。ところが、小さな筐体の中に熱い場所と冷たい場所を作る、つまり温度を分けることが極めて難しいんです。小さくすればするほど難しくなります」(伊庭野氏)
現在の製品は温側38〜45℃、冷側10〜20℃を2枚のプレートで同時に作り出す。プレートは薄くしなければ熱が伝わらない。一方で2枚が近すぎると熱が移動して温度が混ざってしまう。相反する条件をコンパクトな筐体に収める設計は、協力する設計者を驚かせた。
「設計者には『これはスマホを作るより難しいのでは?本当にやりますか?』と言われました。それでも、仕様上妥協できない部分は方々に頭を下げながら、設計して、試作して、ラボに戻ってテストする。その繰り返しをひたすら続けました」(伊庭野氏)
2023年1月、大阪ヒートクールはCES 2023のスタートアップエリア「Eureka Park」にプロトタイプを出展し、同年6月26日にKickstarterでキャンペーンを開始した。だが目標金額には届かず、支援者の約7割は日本人だった。
当時は熱刺激でかゆみに働きかける海外製品が市場に出始めており、日本より海外の方が受け入れられやすいという判断からクラウドファンディングに挑戦した。
だが、誤算が3つ重なった。1つ目は、当初はindiegogoで予定していたところ日本のサポートチームが解散してしまったために、急遽Kickstarterに切り替えたこと。2つ目は、部品の供給元が事業撤退を宣言し、当時のプロトタイプを改良する道そのものが断たれたこと。そして最も深刻だったのが、海外マーケティングへの理解不足だ。海外で一般的な認知を得るには、日本とは桁の違う資金投下が必要だという現実を、チームは把握していなかった。
「やりながら、これはプラットフォームを完全に間違えたなと思いました。まずしっかり日本でやって、作ったものを海外に持っていくのが正解だったと痛感しました」(伊庭野氏)
再起のきっかけは、CES 2023の会場で生まれていた人脈だった。きびだんごの松崎氏は当時、大阪ヒートクールのブースに足を止めた一人だ。
「実は同じようなコンセプトで、熱を当てるタイプのデバイスを展示している海外メーカーがあり、『これはあれと似ていますね』という、いま思えば失礼な話から入ったんです。すると伊庭野さんが『いえ、全然違うんですよ』と科学的根拠を説明されて、非常に説得力を感じました。荒削りなプロトタイプでしたが強く印象に残り、日本に帰ってからもいろいろな人に話していました」と松崎氏は当時を語る。
Kickstarterの失敗から約2ヵ月後、伊庭野氏はきびだんごへ相談を持ちかけ、松崎氏はプロダクトデザイナーの石井聖己氏を紹介した。クラウドファンディングのプラットフォーム運営者がデザイナーの紹介まで踏み込むのは、通常業務を超えた動きにも見える。
「プラットフォーマーの役割としては、確かに範囲外だろうと思います。ただ、我々は結構おせっかいな人種で、『これはいい組み合わせになるのではないか』と思うと、つい一歩前に出てしまうんです」と松崎氏は笑う。
紹介を受けた伊庭野氏は、翌日に京都の石井氏の事務所を訪ねた。以来、設計とデザインのすり合わせが始まる。興味深いのは、「難しい要求を突きつけたのはデザイナー側だった」との証言だ。
「石井さんは富士通時代から技術や組み立て、製造のことをよく分かっている方です。ご自身でスケッチを描いた後、中の部品の設計が上がってくると『本当にこの精度でないと収まらないのですか』というところから始まり、では収めるためにどうしましょうかと、お互いに考えていきました」(伊庭野氏)
異分野の専門家と組む難しさを、伊庭野氏は率直に認める。
「私たちは違う大学のメンバーが集まった会社ですが、大学教員同士のコミュニケーションには実は何の問題もありません。研究分野は違っても、みんな学会に行き、論文を書く。共通言語があるんです。でも一歩外に出てデザイナーや工場の人と話すとなると、こちらの持っているものが全然通じないと痛感しました。幸い石井さんは間に立って、専門用語を使わずに話せる方でした。年齢が近く、お互い子育てをしているのも大きかったですね」(伊庭野氏)
量産を担う工場探しでも同じ壁に突き当たった。中国も含めて探し回った末にたどり着いたのは、国内、それも大阪の工場だった。
「組み立て作業工程書を作ったこともなかった私たちに、『こう書けばいい』と教えてくれるところがやっと見つかりました。行ってみたら、別のスタートアップの製品がずらりと並んでいたんです。スタートアップが必死に探していくと、結局みんな同じところにたどり着くのだなと。量産試作の段階から高い品質のものを作ってくれて、国内の方が話が早いということがよく分かりました」(伊庭野氏)
デザインが固まり、2024年1月のCESに新しいプロトタイプを出展した後も、市販までにはもう1つの関門があった。安全性の検証だ。ThermoScratchは医療機器ではなく一般雑貨だが、大阪ヒートクールは専門機関による製品安全性テストを実施している。
「温める、冷やすについては、安全な温度範囲のデータがあります。しかし両方を同時に当ててサーマルグリル錯覚を誘発することが本当に安全なのかは、分かっていませんでした。それを確認するために、病院でアトピーの患者さんに来ていただき、皮膚科の先生に同伴してもらいながら試験をしました。2025年10月に6日間かけて、13人の方でテストしています。試験にはほぼ完成形の機体が必要だったので、そこまで作り込んでから臨みました」(伊庭野氏)
試験に先立って、伊庭野氏は自分の体でも限界を確かめている。
「30分間当て続けるとどうなるかを自分で試して、ビリビリとした痛みをずっと我慢していました。さまざまな検証を経て、今のデバイスは最大30秒で運転が止まるようにしています」(伊庭野氏)
安全設計は多層的だ。温側と冷側の両方にサーミスター(温度センサー)を入れて温度を監視し、PWM(パルス幅変調)で制御する。それでも暴走の可能性はゼロにできないため、そもそも30秒しか通電できない仕様にした。ユーザーからは就寝時に使えるウェアラブル型の要望もあったが、あえて断っている。
「寝ている時に掻いてしまうのが嫌なので固定できるようにしてほしい、という声はありました。しかし、それはそれでリスクなんです。手持ち型にして、自分で皮膚に当てる動作を選んだのは、熱いと感じたらすぐ離せるようにするためです」(伊庭野氏)
Kickstarterの失敗から今回の再挑戦まで3年。その間、部品供給の断絶とデザインの刷新で開発はやり直しに近い状態だった。それでも続けられた理由を尋ねると、伊庭野氏の答えは意外なほど率直だった。
「『これはいける』という自信は、正直無くしかけていました。『それでも、やるしかない。作るしかない』という気持ちです。私自身が本当に作りたかったので」(伊庭野氏)
精神論だけではない。資金面ではもう1つのプロダクトが会社を支えた。大阪ヒートクールは温度でかゆみに挑むThermoScratchと並行して、生理痛を疑似体験するデバイス「Perionoid(ピリオノイド)」を展開している。
「ThermoScratchの開発が大変なことになっていた時期に、Perionoidの売り上げが細々と立つようになり、それが急に伸びたんです。Perionoidの売上でThermoScratchを作る道筋が開けました。本当にやりたかったThermoScratchの開発を、Perionoidが支えてくれました」(伊庭野氏)
役員6人の間で撤退が議論されたこともなかった。
「やめるという選択肢は出ませんでした。みんな研究者で、割と粘り強い人たちなんです。始めたからには最後までやろうという空気があり、『今回はうまくいかなかった、次はこうしよう』という話をしていました」(伊庭野氏)
外からの声も背中を押した。Webサイトのウェイティングリストには熱いメッセージが書き込まれ、SNSで取り上げられるたびに好意的な反応が届いた。「石井さんにデザインしてもらったものを、出さずに終わるわけにはいかないという気持ちも強くなりました」と伊庭野氏は明かす。
一度目標未達に終わった案件に、3年かけて伴走したきびだんご側にもリスクはある。松崎氏はこう説明する。
「伴走というほどのことはしておらず、『最近どうですか』と時々お声がけしていただけなんです。ものづくりは楽ではないし、時間がかかる。すぐにできる話ではないと百も承知していますから、そこも含めて待ち続けるのが我々の基本スタンスだと思っています」(松崎氏)
クラウドファンディング終了後の展開について、伊庭野氏は「試してから買ってもらう」流通を構想している。
「届けたい人にどう届けるかが悩ましく、まだ決まっていないことも多いのですが、皮膚に悩みを持つ方が集まる場所、具体的にはクリニックやサロンに置いてもらう方法が一番いいのではないかと考えています。EC販売も想定していますが、錯覚の感じ方には個人差があるので、専門家の意見を聞きながら試して買っていただく方が、消費者にとっても安心だと思います」(伊庭野氏)
医療機器にする可能性も探ってはいるが、道は長い。
「相談はしてきたのですが、これを医療機器にするときのカテゴリーが存在しないんです。何に分類されるのかというところからのスタートで、下手をすると5年ほどかかる。長い目で見て取り組まなければとは思っています。医療機器にする場合は規制も変わり、例えば今のランプはオレンジ色に点灯しますが、赤系の色の扱いなど、作り直さなければいけない部分が出てきます」(伊庭野氏)
温冷触覚技術の応用はすでに次の製品も生んでいる。布地の接触冷感などの触り心地を定量的に測定するBtoB向け機器「ThermoFeel p」で、ThermoScratchと近い技術と部材を使い、これも石井氏とともに開発したものだ。伊庭野氏は「Maker FaireもNTも大好きですし、ものを作るのが好きなんですね。プロトタイプは社内でバンバン作って、出ては消え、出ては消えしています」と話しており、ユニークな着眼点の製品はこれからも出てきそうだ。
政府がディープテック支援に力を入れ、研究者の起業が促される流れの中で、核融合という「王道のディープテック」を知る伊庭野氏があえてコンシューマープロダクトに挑んでいることは、それ自体が1つのメッセージに見える。研究者が外の世界に出る意味を、最後に聞いた。
「大学でやれることと、外でやれることはかなり違っていて、研究者は外に出るべきだと強く思っています。学術的なことを学生にしっかり教えるのはもちろん大事です。でも、実社会がこう動いていると分かった上で伝えないと、学生もピンとこない。会社を始めて、実務的なところから理解できるように学生へ伝えるスキルは上がったと思いますし、視野が本当に広がりました。決して簡単な道ではありませんが、BtoCにせよBtoBにせよ、何らかの経験を持っておくべきだと常々思いますね」(伊庭野氏)
研究室で知られていた錯覚が、一度の失敗を経て、量産直前まで来た。ThermoScratchのクラウドファンディングはKibidangoとGREEN FUNDINGで2026年8月30日まで実施している。