
スマートフォンと連携する防犯デバイス「Yolni(ヨルニ)」が、2025年9月にクラウドファンディングに登場、初日で目標額を達成した。開発期間は実に9年。一般的なハードウェアスタートアップが1〜2年で製品化を目指す中、なぜこれほどの時間をかけたのか。
開発を手掛けたYolniの奥出えりか氏と矢島佳澄氏、植田えりか氏に、これまでの経緯を聞いた。

雑談から始まった9年の旅

物語は2016年、かつて東京・赤坂にあった会員制工房「TechShop」に遡る。「乙女電芸部」というサークルでMaker活動を共にしていた矢島氏と奥出氏は、Android Experiments OBJECTというコンテストへの応募をスタッフから勧められた。締め切りは数日後。時間がない中での雑談が、すべての始まりだった。
「その当時はIoTブームが始まった頃で、カーテンの開け閉めとか、いろいろなものがIoT化されていました。その中で、防犯ブザーってずっと進化が止まっているよねという話になったんです」(矢島氏)
その当時から電子工作をしていた矢島氏は、3G回線で直接電話をかけられる基板の存在を知っていた。「スマホを持っているんだから位置情報も取れるし、電話をかけられるブザーがあってもいいんじゃないか」。そんなアイデアを1日でプロトタイプに落とし込み、応募した。
結果は賞を逃したものの、ファイナリストに選ばれた。そして、結果発表パーティーでの反響が予想以上に大きかった。銀行やクラウドファンディングサイトの関係者から「これはすごくいいから頑張って欲しい」と声をかけられ、本格的な開発がスタートした。

4人体制での本格始動にあたり、新たにソフトウェア担当とデザイン担当を迎えた。ソフトウェア担当は二人の大学の先輩である中井裕人氏、デザイン担当の植田えりか氏は奥出氏の小学校からの同級生。「お互い勝手知ったる仲」でチームを組んだ。
「乙女電芸部」という活動名が示すように、矢島氏と奥出氏は「毎日がちょっと楽しくなる『自分のためのものづくり』をしよう」を合言葉に、手芸と電子工作を組み合わせたワークショップを開催していた。この活動で培った「技術をいかに身近に感じてもらうか」という視点が、Yolniの開発にも活きることになる。防犯ブザーという堅いイメージの製品を、いかにファッショナブルで親しみやすいものにするか——その原点は乙女電芸部の活動理念にあったのかもしれない。

一点物から量産へ——想像を超えた壁の高さ
2016年当時、矢島氏は展示会向けの一点物プロトタイプの受託開発を手がけていた。メーカーのデザインプロトタイプを作る仕事だ。一方、奥出氏はデザイン会社を経営し、デジタルファブリケーションを活用した小ロット商品の開発やイノベーション創出のワークショップファシリテーションを行っていた。
しかし、量産となると話は全く違った。
「一点物なら壊れたら直せばいい。でも100個量産した場合、1個壊れたら残り99個にも不具合が発生する可能性があるんです」(矢島氏)
実際、最初の基板発注では100個中85個しか正常に動作しなかった。ペアリングができない、静電気で壊れる——そうした問題を一つずつ解決していく必要があった。
「なんでだろうって原因を探って、静電気対策をするとか、回路のクロックを変更するとか、いろいろやりました。出荷基準を作るのも手探りで、何もしてなかったらエラー品も一緒に送られてきちゃったりして」(矢島氏)
部品調達も大きな壁だった。秋葉原で適当に部品を買ってくる一点物とは違い、量産では部品がディスコン(製造中止)にならないか、何年後まで供給が保証されるかを確認しなければならない。「1万個からしか買えない部品もありました。少量で取引するにはどうすればいいか、いろいろ掛け合ったりしたんです」(矢島氏)

技術の進化と部品供給の不安定さの狭間で、常に判断を迫られた。
「部品を作ってる会社がその事業部ごと別の会社に譲渡してたり、予定していた部品が入荷するのは半年後とか言われて、半年待ってられないから別の会社に変えようとか」(奥出氏)
筐体設計も同様だ。「試作品をカバンに付けると揺れてガシャンとぶつかる。ちゃんとケースになっていて、壊れない、落ちないものを作るには専門の知識と設計が必要でした」(矢島氏)
製造仕様書の作成、工程表の作成、MOQ(最小発注数量)の壁、海外流通品のトラブル、ディスコンリスク——経験した「ハードウェアの大変さ」は枚挙にいとまがない。最初は全部自前でやろうとしたが、必要に応じて外部のプロに委ねる線引きもできるようになった。
「まずは自分たちでやってみないと、何を頼めばいいかわからない。ある程度やってみてから、『どこまでは自分たちができて、ここはプロの専門家の力が必要か』の線引きできるようになった」(矢島氏)
VCから資金調達しない選択とデザインの大転換
多くのハードウェアスタートアップがVCや事業会社に自分たちの株を売って資金調達をすることで短期間での製品化を目指す中、Yolniチームは異なる道を選んだ。全員が本業を持つことで人件費を抑えつつ、自己資金と補助金、融資で開発費をまかなうという選択だ。
「スピード感を求めるとハードウェアスタートアップは自分たちにはキツいなと感じていました。没個性的なものじゃなく、こだわりが表れたものを作りたい。そのためには自分たちのペースでやりたかった」(奥出氏)
こうしたスタートアップのあり方は、意図的に選択されたものだった。「資金調達も補助金やコンテストの賞金から集めて、人件費ではなく全て開発費に回す形でやってきました」(奥出氏)
東京都中小企業振興公社との関係も長く、特許取得から融資まで「ずっと何年もお世話になっている」という。華やかなピッチイベントや派手な資金調達の発表はない。しかし、だからこそ自分たちのこだわりを貫けた。
「スタートアップってよくパッと資金調達して、それで人件費を回しながら半年間やるみたいなのがよくあると思うんですけど、そういうのはやめようって。キラキラしないというか、すごいこだわっていたっていうのはありましたね」(奥出氏)
この選択が功を奏したのがコロナ禍だ。部品不足で開発が3〜4年停滞した時期も、「出資を受けていたら大変だった」と振り返る。自分たちのペースを守れたからこそ、9年という時間をかけることができた。
その9年の中で、プロダクトは大きな転換を迎えた。当初の「しっぽコール」というネーミングが示すように、最初のデザインはふわふわのしっぽ型だった。ギュッと握ると安心できるデバイス。しかし、ユーザーリサーチを重ねる中で、根本的な見直しを迫られた。
「ファッションの傾向と被害に遭いやすさを結びつけるのは絶対に偏見が生まれるからやめようという結論になりました」(奥出氏)
調査を進めると、狙われやすさはファッションではなく歩き方や態度に関係していることが分かった。さらに、若年層では男性も被害に遭いやすいという事実も明らかになった。
「世界では性被害の1割弱※が男性という統計もあります。日本では数%ですが、それは男性の方がより声を上げにくいからかもしれない」(奥出氏)
※UNICEFの調査によれば、男性は11人に1人の割合で性的暴行の被害を受けているという(筆者注)


こうして、ピンクのしっぽ型から、ジェンダーレスで年齢を問わない円形のデザインへと進化した。名前も「Yolni」に変更。誰にでも寄り添える存在を目指した。
デザイン担当の植田えりか氏は「最初は宝石っぽくキラッとさせる案もあったんですけど、そうすると女性寄りになってしまう」と振り返る。最終的には「円と線のシンプルな組み合わせ」にすることで、「性別や年齢、流行に左右されずに長く使ってもらえる形」を実現した。
最終的なデザインは、プロダクトデザイナーの柏樹良氏が手がけた。ソニー出身のデザイナーで、ラグジュアリー家具ブランドの名作も手がける柏樹氏は、金属切削による高級感のある外観を実現。「高級ブランドバッグにつけても馴染むような見た目」にこだわった。カラーバリエーションも「選ぶ楽しさがあってファッションアイテムっぽい買い物ができる」ように複数用意。防犯グッズという重いテーマを、ポジティブな気持ちで持ち歩けるアイテムへと昇華させた。
開発の歴史は、Maker Faire Tokyoでの展示に凝縮されている。「バージョンは大まかに言うと10個ぐらいですが、マイナーチェンジを含めると100個ぐらい」(矢島氏)。歴代プロトタイプを並べて展示すると、同じものづくりをする人たちから大きな共感を得た。
「ものづくりをやってる人にとって、サービス化するって一つの夢。その夢を見せられる存在になれたらいいねと話していました」(奥出氏)
Maker Faireでは、SlackとのAPI連携やさまざまな通知方法のデモも行った。「技術系の方とかが説明パネルを見て質問してくださったり、結構反応がありました」(矢島氏)。アーリーアダプター向けの機能を見せることで、単なる防犯ブザーではない、IoTデバイスとしての可能性を示した。

一方で二人が利用していた会員制工房「DMM.make AKIBA」を中心とした秋葉原界隈のつながりからも、さまざまな出会いがあった。アクセラレーション・プログラムを通じたメンターや、機構設計の委託先など重要なパートナーとの出会いがあった。
最も開発が難航したのは、意外にもストラップだった。納得のいくものが完成するまでに2年もの時間を要した。「こういうIoTデバイスをアクセサリーとしてカバンに付けられるデザインができる会社が、なかなか見つかりませんでした」(矢島氏)。

最終的には革製品を手掛けるFABRIKが、デバイスが開けられる構造を考慮しながら美しいストラップをデザインした。ユーザーが電池交換できる設計になっているため、筐体が開けられることが前提ーーその制約の中でデザインするのは並大抵のことではなかった。
FABRIKは、プロダクトデザイナーとクラフトマンの2人で運営されているブランドで、「カバンだけのことを考えているのではなく、生産工程まで考えた提案があったことには驚きました。デザインも遊び心があって、ちゃんと機能性もある」(矢島氏)。金属と革のたわみを計算し、開閉機構を邪魔しないストラップを実現した。

製造は、筐体の金属切削と樹脂成形は海外、基板の製造と組み立てを富山県内の工場が担当。矢島氏は何度も工場に通い、10台、100台と段階的に製造を進めた。
ボタン部分の機構も苦労の連続だった。当初はメンブレンスイッチを採用していたが、大きな面全体で押せるようにするため、最終的には特殊なスポンジ状のパーツを仕込む方法に落ち着いた。「端っこで押しても押せるようにっていう、結構難しい要求でした」(矢島氏)。この機構の完成には1年以上を要した。

9年という時間がもたらしたもの
9年の開発期間中、当然ながら競合製品も登場した。しかし、チームは焦らなかった。
「市場がなさすぎるんです。子供向けGPSは市場がありますが、大人向けっていうのは全然確立されていない。競合は怖いけど、市場が活性化することはいいことだよね」(奥出氏)
そして何より、9年かけて積み上げたこだわりがある。金属切削による筐体、ユーザーが電池交換できる設計、ジェンダーレスなデザイン、寄り添うようなアプリのUI——「同じものは作れないと思っています」という自信がある。
「やっぱり最初から筐体側だけ作ってたら、オーダーできなかったんじゃないかなって思っていて。今まで失敗してきたことをたくさん話せて、『これ駄目だったんです』『こういう理由で駄目でした』『こういうものを目指したいんです』って伝えられた」(奥出氏)
9年という時間は、技術の進化ももたらした。特に生成AIの登場は、当初は夢物語だった機能を現実のものにした。
「不安なときにボタンを押すっていうデータは、他の製品では取れない貴重なデータ。でも、それをどう活用するかは本当に難しかった。今のAIならパーソナライズした情報提供ができる」(奥出氏)
当初は自治体へのビッグデータ提供という方向性を考えていたが、今ならユーザー個人に寄り添った形でのデータ活用が可能になった。これは数年前には実現できなかった機能だ。
セキュリティデバイスである以上、サービスの継続性は極めて重要だ。「せっかく買っていただいたからには、ちゃんとサービスを続けられるようにしていきたい」と奥出氏は覚悟を滲ませる。
現在はiPhoneのみの対応だが、Androidへの対応も検討中だ。「AndroidはiPhoneと比較して対応するバージョンが多く、時間とコストの面から対応を見送りました。しかし、クラウドファンディングでたくさんご要望いただいたので、今後検討していこうと思っています。ただ、不具合が起こったら困るプロダクトなので、地道に一歩ずつ進めていきたい」(矢島氏)
「一人のMakerから、組織としてのメーカーになる」
その道のりは想像以上に険しかった。一点物の試作と量産品の間には、想像を超える壁がある。部品選定、基板設計、筐体設計、製造仕様書、工程表、品質管理——すべてが異なる次元の難しさを持つ。しかし、その壁を一つずつ乗り越えることで、本当の意味での「プロダクト」が生まれる。
Yolniの9年間は、ハードウェアスタートアップの教科書的な物語ではない。むしろ、寄り道や回り道、立ち止まることの価値を教えてくれる。資金調達に追われることなく、自分たちのペースでこだわりを追求し、コミュニティに支えられながら、一歩ずつ前に進む。
「普通のスタートアップには真似できないかもしれない」(奥出氏)。確かにそうかもしれない。しかし、だからこそ、このチームにしか作れないプロダクトが生まれた。
防犯ブザーという、誰もが知っているけれど誰も進化させようとしなかったプロダクト。それを9年かけて再発明したYolniチームの挑戦は、ものづくりに携わるすべての人に、大切な何かを問いかけている。スピードか、こだわりか。効率か、価値か。その答えは、きっと一つではない。
