
電子工作を始めた人なら、たいてい最初にこの店のサイトを開く。秋葉原のパーツ街に半世紀以上店を構える秋月電子通商は、日本中の「作る人」が当たり前のように頼ってきた店だ。
ただ、その正体は少し変わっている。扱う部品はすべて自分たちの目で選び、現金で仕入れる。マイコンボードもセンサーも、変換基板やモジュールは自社の工場で作る。なぜそうなったのかをたどると、一人の創業者の性格に行き着く。秋月電子通商は、いってみれば辻本昭夫という型破りな創業者の哲学で動いてきた会社だ。
創業者である辻本会長(以下、会長)の右腕として、20年近く現場を支えてきた営業部長の袴田氏に話を聞いた。
「電子部品の八百屋」を称する、目利きのプロ集団


まず、いまの秋月の姿を押さえておきたい。年商はおよそ30億円。従業員は約160名で、そのうち正社員は約40名だ。注文はオンラインが1日に約1200件、秋葉原店には1日およそ500名が足を運ぶ。一方で自社運営のECサイトには1日に延べ約20万人が訪れる。
売上の比率はオンラインと店舗でおよそ9対1、顧客層はほぼ法人で個人は5%に満たない。それでいてリピーター率は85%を超える。
これだけの規模を持ちながら、秋月は自分たちを大きく見せようとしない。この店の性格を会長や袴田氏は「電子部品の八百屋」「セレクトショップ」という言葉で表現する。
データシートを読み込み、自分たちで触って確かめたものだけを並べる。メーカーから「これを置いてほしい」と頼まれても、簡単に首を縦には振らない。扱う部品はメーカーから預かるのではなく、前払いで全量買い取る。だからトップページにメーカー名がほとんど出てこない。特定の1社と独占的に組んだり、イレギュラーな契約に縛られるのを、辻本会長は昔から嫌った。競合するメーカーの部品を真横に並べたい、というのがこの店の流儀だ。

裏を返せば、店の品揃えは会長の好みそのものだった。目に留まった部品を、なるべく早く顧客に届ける。専用ICから電源や周辺回路、やがてマイコン、そしてセンサーへと、扱う半導体は時代とともに移り変わったが、面白いものを置くという一点だけは動かなかった。秋月の棚は、創業者の興味の地図でもある。
球根か電子部品か

その創業者が、もう少しで電子部品店を始めていなかったかもしれない――というのが、辻本会長が袴田氏に語ってきた創業の経緯だ。1949年生まれの会長は、東京工業大学附属科学技術高校に在学していた1960年代に、世田谷区瀬田の自宅で「信越電機商会」として商いを始めた。CQ出版の雑誌に広告を出し、土日には自宅でジャンク品を売る。秋葉原に店を開いたのは1970年11月、三島由紀夫が自決したのと同じ日だったと記録されている。
商売を始めるとき、会長は植物の種や苗を売るか、電子部品を売るかで迷っていたという。「会長は、植物が好きなんです」と袴田氏は言う。その性分は後年まで抜けなかった。10年ほど前、会長は九州で彼岸花の球根を育てる農家に電話をかけ、その年の生産分を丸ごと買い取った。年配の夫婦が彼岸花はもう売れないので農家を畳もうかと漏らしたのを聞き、それも寂しいと思ったからだ。仕入れた球根は、新商品の販売開始時刻に合わせて、会長が誰にも告げず秋月のサイトに並べてしまった。袴田氏がそれを知ったのは、同業者との会食の最中だった。「秋月球根」と呼ばれ、ひとしきり常連を驚かせた一幕である。
電子部品の側に天秤が傾いたのは、父親の縁だった。会長の父は新聞関係などの仕事をしており、その人脈に電気系の払い下げ品が流れてくるルートがあった。会長はそれを買い上げ、部品の販売を始める。本当に最初はジャンクの転売だった、と袴田氏は会長から聞いている。世田谷の自宅のガレージで土日に部品を並べる、それが秋月の出発点だ。
オープンソースという言葉が生まれる前から

創業期から続く一つの姿勢が、秋月を秋月たらしめている。回路図の全面公開だ。それも、オープンソースという言葉が世に出るより前からそうしてきた。
理由が会長らしい。「情報をすべて開いておけば、間違いがあってもお客様が自分で直せる」いわば「責任逃れ」の発想だったというのだ。ブラックボックスにすれば不具合の責任を負うことになるが、回路図も組み立て図もさらけ出してしまえば、顧客側で見ながら修正してくれる。だから秋月は、概念が広まる前からオープンソース的なやり方を続けていた。無料で公開する回路図集を、欲しいという顧客のためにCD-ROMに焼いて300円ほどで売っていた時期もある。

手作りのマニュアルは辻本会長自ら筆を執り、印刷、封入まで内製。毎日、印刷機がフル稼働した時期もあった。現在は八潮と川口の2拠点と連携し分業化している。
紙の時代の秋月は、小さな印刷工場でもあった。当時の店の2階には、理想科学工業のリソグラフが多いときで6台並んでいた。大量の印刷物を高速に刷れる孔版印刷機だ。インターネットがないから、部品にはデータシートを添えなければ使い方が伝わらない。10個100円のコンデンサーにさえ、会長が手作りでまとめた1枚もののデータシート要約を表裏で用意し、コピーして袋詰めにしていた。その膨大な作業を、会長はほぼ1人でこなしていた。
この頃の会長の働きぶりを、袴田氏は伝聞ではなく自分の目で見ている。秋月に入る前、半導体業界の営業として店に通っていた時期があるからだ。会長は朝から晩までほとんど座らない。首から携帯電話を3個ぶら下げ、片手で電話を取り、印刷機を回し、立ったまま商談をさばく。仕入れ先の営業マンは1階から2階の階段に5人も6人も並び、1、2時間は待たないと話もできなかった。「本当に、何をしているんだろうと思うくらいでした」と袴田氏は苦笑する。
二人の距離が縮まったのも、その喧騒がきっかけだった。店舗に訪れる顧客と営業に揉まれる会長が、息抜きに近くの喫茶店へ逃げ出す。袴田氏はそれに付き合った。月曜と木曜の定休日には、会長の自宅に呼ばれて打ち合わせをした。当時大学生だった現在の社長が、駅まで車で迎えに来たこともある。そうやって2年ほど親交を重ねた末、会長から重ねて受けた「うちに来なよ」という誘いに応じ、袴田氏は当時勤めていた半導体商社から秋月へ移った。
専用ICからマイコンへ、舵を切らせたPIC

秋月の歴史で大きな潮目になったのが、専用ICからマイコンへの移行だ。時計用やラジオ用の専用ICが次々に廃番になり、それではキットが作れなくなる。そこで会長が踏み込んだのが、マイコンにプログラムを書き込んで専用ICと同じ機能を持たせる道だった。主役の座を射止めたのが、Microchipのマイコン「PIC」である。秋月とMicrochipの付き合いは30年から40年近くに及び、「秋月といえばPIC」と言われるほど扱いが多い。
この流れで秋月が放った一手が、オリジナルの書き込み機だった。純正のライターが何万円もした時代に、秋月は「AKI-PICプログラマー」を4000円から5000円ほどで売り出した。累計の販売台数は数十万台に上るという。価格を抑えられたのは、自分たちで設計して作ったからだ。やがてMicrochip自身も安価な書き込み機「PICkit」を投入したが、今では値上げや為替の影響もあり1万円を超える。秋月は長く自社製にこだわったが、需要の変化に合わせて純正のPICkitも扱うようになった。それでも、純正品を流す正規の販売チャネルより多くのPICkitを売ってきたと袴田氏は言う。香港にあるMicrochipのマーケティング拠点も、その数字を把握しているそうだ。ライターや開発ツールの販売額でいえば、秋月はいまも国内で群を抜く。それだけ日本に、エンジニアや開発の現場が多いという裏返しでもある。一つのマイコンが、専用部品の店をマイコンの店へと押し出した。
もっとも、マイコンボードそのものは秋月にとって新顔ではない。30年以上前から、当時は日立、のちのルネサス エレクトロニクスのマイコンを載せたオリジナルボードを作り続けてきた。ただし、それは用途ごとに仕立てたボードであって、これを標準として使ってほしいと売り出すものではなかった。のちに世界を席巻するArduinoとは、その点が違っていた。
断られても「作りたい」、実装工場が生まれるまで
Arduinoの登場を、秋月は冷静に見ていた。初期のArduinoにはAtmelの8ビットマイコン「ATmega168」などが載っていたが、ハードとして見れば秋月が長年作ってきたマイコンボードとそう変わらない。違ったのは、ソフトウェアのライブラリやエコシステムを含めた売り方だった。それでも秋月の関心は、いつも「自分たちで作りたい」という一点に向かう。
その姿勢は、たびたび行動になって表れた。Arduinoが本格的に普及し始めると、秋月はArduinoの本社にボードを作らせてほしいと問い合わせる。だが、当時のArduinoは創業して間もなく、体制が整っていなかったこともあり、ライセンスの話が折り合わなかった。
Raspberry Piが世に出たときも、財団に生産させてくれないかと打診した。しかしRaspberry Piは最初から世界中で売るのが前提で、生産は海外の代理店に委ねられていた。国内での生産と販売に徹する秋月の方針とは合わなかったと袴田氏は説明する。秋月がRaspberry Piの正式な代理店契約を結んだのは、純正品の流通量が認められた、コロナ禍明けのことだった。
作れないなら、作れる体を自前で持つ。この発想が、自社の実装工場へとつながった。きっかけは部品事情の変化だ。手はんだ付けが容易なリード品やDIP品が、ICメーカーの都合で姿を消していく。面白い部品があっても、表面実装のフラットなパッケージばかりでは部品屋として触れない。そこで会長は、表面実装の部品を手はんだできる変換基板に載せ替え、誰でも扱える形にして売る道を選んだ。
はじめは外部の実装業者に頼んでいた。だが、扱う品目が多いうえに1点ごとのロットは小さく、それでは単価が下がらない。自前で抱えるしかなかった。創業以来、秋月は自社でリスクを取って大量に在庫を仕入れ、たとえ1人が1個だけ買う注文でも値段を抑えてきた。変換基板やモジュールも、その延長で自分たちの工場から生み出す。企画も在庫も実装も社内で完結させ、それを小売りする。製造から販売までを一手に握るこの形が、ほかの部品店にはない秋月の強みになっている。

ここでも会長が真っ先に動く。実装機を、誰にも相談せずに発注してしまったのだ。機械は届いたものの、置く場所まで考えていなかったため、半年間ただ眠っていた。最初のラインは八潮店の裏に組み、次に通販センター前のプレハブ小屋へ、さらに社宅の隣の土地へと、工場は移設を重ねた。
「莫大な投資ですし、結構ハイリスクです」と袴田氏も認める。それでも会長は数字をあまり考えず、どうにかなるだろうと動き出す。その後始末をして軌道に乗せるのが、袴田氏と社長の役目だった。会長が思いつき、まわりが形にする。秋月の現場は、いつもこの順番で回ってきた。工場をむやみに大きくするつもりもない。自分の目が届く範囲でなければ気が済まない、という会長の性分があるからだ。拠点を川口や八潮に置くのも、車ですぐ行ける距離でしか広げないという理由による。規模よりも、小回りを選ぶ。

「在庫は利益率100%」という理屈

巨額の投資を現金でこなせるのは、秋月が無借金経営を貫いてきたからだ。仕入れはほぼ前払い、機械も全額キャッシュで支払う。借金をしないのが会長の信条で、賃貸しているのは秋葉原店の建物くらい。八潮の通販センターは約1500坪、川口の物流センターは約1000坪あり、いずれも自社の資産だ。売って得た利益で部品を仕入れ、その利益で土地を買い、建物を建てる。すべてを再投資で回してきた。
在庫をめぐる会長の言い分が、また独特だ。とんでもない量の在庫を抱えながら、在庫は利益率100%だと言う。仕入れはすでに上がった利益で買い終えているのだから、売れ残ってもリスクはないという理屈である。八百屋と同じで、仕入れたものが売れるかどうかは開けてみないと分からない。失敗も数多いが、身の丈の利益の範囲で買っているから痛手にはならない。
顧客への姿勢も会長の流儀そのものだ。秋月には今も数量制限のかかる商品が多く、量産向けの予約は受けつけない。かつての店には「買い占め禁止」の貼り紙があった。人気の部品でも売り切らせたくないからだ。回路を組むには、部品が1個でも欠ければ先に進めない。だからこそ、せっかく来た顧客をものがないからと帰すような事態は避けたい。送料も同じで、ここでは利益を取らない。全国どこでも一律にし、首都圏から多めにもらうぶんを遠方の赤字で相殺している。
この「お客様しか見ない」構えが、危機のときに効いた。2020年の緊急事態宣言が出ると、会長は2年分の在庫を持とうと号令をかけた。「半年分の在庫が基本のところを、2年分。つまり4倍の発注をかけました」と袴田氏は振り返る。工場が止まり、客の生産も止まる中で、その判断は重かった。発注をさばいたのは、国内外500社を超える仕入れ先をたった2人で見ていた袴田氏と社長だ。結果として、2021年から2022年にかけて秋月は過去最高の売上を記録する。値上げが続く今も、受けてくれるメーカーには1年から2年分の在庫を安い価格で確保し、尽きるまで値上げせずに売り続ける構えだ。
はんだごてを触ろう

独立独歩も、会長の性格に由来する。会長は人付き合いをほとんどしない人で、近所の同業との横のつながりにも加わらなかった。
「秋葉原に店を出したのは、電気街として部品を求めるお客様が集まるからにすぎません。ですが、その距離の取り方がかえって店を守ったのかもしれません」と袴田氏はみる。同業者の輪に入らなかったからこそ、バブル期に周囲の部品店が次々と商社へ姿を変えていく中でも、秋月は創業時のコンセプトを崩さずに済んだ。
辻本会長は2012年に長男の信昭氏へ社長を譲り、自身は会長職に退いた。それでも、店に流れる気質は変わっていない。仕入れの目利きは、いまや社員全員で担う。メーカーのプレスリリースを商社より早く読み、面白そうな部品があればサンプルを取り寄せ、評価してモジュール化する。従業員はただの部品好きの集まりだと袴田氏は笑う。店頭の社員の「これ面白いんじゃないですか」という一言から動きが始まる。後からメーカーに、そんなものを作っていたのかと驚かれることもある。ソニーの「Spresense」のように、最初は細い販路から育て、3年、5年と扱い続けて定番にしていく例もあるという。マイコンは長く売らなければ市場に根づかない、というのが秋月の経験則だ。
退いたとはいえ、会長の熱は冷めていない。土日だろうが早朝だろうが、興味を引いた部品を見つけては袴田氏に電話やFAXが飛んでくる。「こんなのを見つけたんだけど面白そうじゃないか」と、時間に関係無く電話が鳴ることもある。海外からの調達は、昔から会長の独壇場だ。英語も中国語も読めなくても、型番と基板の中身だけを見て面白そうだと判断し、仕入れてしまう。「あんな人は見たことがない」と袴田氏は舌を巻く。創業者の興味と情熱が、いまも会社を駆動し続けている。
その一方で業界そのものへの目配りも忘れていない。秋月はもう、宣伝を必要としないほど名の通った店になった。それでも、専門誌やイベントへの協賛やスポンサードを今も欠かさない。電子工作という文化そのものを絶やさないためだ。
最後に、これから電子工作を始める若い世代へのメッセージを尋ねた。返ってきた答えは、部品屋らしくまっすぐだった。
「可能な限り、はんだごてを触ってください」と袴田氏は言う。ソフトウェアでシミュレーションまでできる時代だが、システムを動かす元にはハードがある。だからこそ、触れて、失敗して、経験してほしい。触りやすい部品を選び続けたい、面白いと思ってもらえる品揃えにしたいというのが、社員全員の願いだという。
世田谷のガレージでジャンクを並べた一人の創業者の流儀は、半世紀を越えてなお、作る人のために部品を選び続けている。

