
電圧をかけると、ガラス管の中で数字が橙色に光る。ニキシー管と呼ばれるこの表示部品は、いまから70年ほど前の1955年に米国で商品化された。LEDも液晶もなかった時代に計測器や電卓の数字表示を担い、やがて安くて扱いやすいLEDや液晶に席を譲って、1980年代までに主要な工場が製造をやめている。ここまでなら、よくある「消えた技術」の話である。
ところが、この管は消えなかった。LEDで事足りる時代に、わざわざ170V前後の電圧をかけてガラス管を光らせる人たちがいる。2025年のクラウドファンディングではニキシー管の腕時計に508人が集まり、チェコと日本では、失われた製法をゼロから復元してまで新品を手作りする作り手が現れた。LEDで数字が表示できる時代に、なぜわざわざ手で作るのか。その答えは、この部品がたどってきた70年の中にある。
そして、この部品は誕生の経緯もひと筋縄ではいかない。ニキシー管とよく似た構造の表示器が、商品化の21年前、1934年に特許出願されていた。想定されていた用途は、時計でも電卓でもなく株価ボードだった。
株価ボードになりそこねた発明

1934年5月9日、米国の技師Hans P. Boswau氏がある特許を出願、1939年1月に成立した(US2142106)。申請書に描かれているのは、数字の形に作った電極をごく薄いガラス円盤とともに10枚重ね、どの数字を光らせても同じ位置に見えるようにした表示器だった。
管に封じたネオンガスの中で電圧をかけると、選んだ電極の輪郭に沿って、放電の光の膜がまとわりつく。グロー放電と呼ばれる現象で、ネオンの場合、光は橙赤色になる。フィラメントを熱して光らせる白熱電球と違って消耗が穏やかで、消費電力も小さい。のちのニキシー管も、これと同じ原理で光る。姿はラジオの真空管に似ているが、陰極を加熱するヒーターを持たない別の系譜で、いわばネオンサインの仲間である。
電極が前後に重なっているため、点灯する数字が変わるたびに、光の位置はわずかに手前や奥へ移る。ガラスの中で数字が浮いて見える独特の立体感は、この積層構造から来ている。後にニキシー管と呼ばれるものとよく似た姿が、1934年の図面の中にすでにあった。
Boswau氏がこの表示器の用途として挙げたのは、株式相場の表示システムである。最大1500銘柄を扱い、毎分120件の更新をさばく。刻々と変わる数字を、可動部なしに、放電の点灯と消灯だけで切り替えるという構想が、具体的な回路とともに記されている。今日の電光掲示の発想が、そこにはもうあった。
この特許にはもうひとつ、放電表示の実用を支える性質が書かれている。放電は、始めるときより維持するときのほうが低い電圧で済む。一瞬のパルスで点火してしまえば、あとは低い電圧のまま表示が保たれるから、表示を覚えておくための回路を外に持たなくてよい。
原理があり、用途があり、利点の理解まであった。それでもBoswau氏はこの構想を製品化していない。よく似た構造の表示管が世に出るのは、出願から21年後の1955年のことである。
由来不明のまま、商標になった名前

先に断っておくと、1934年の特許と1955年の製品のあいだに、直接のつながりを示す資料は見つかっていない。後発の側がBoswau氏の出願を知っていたのかどうかも分からない。はっきりしているのは、この21年のあいだに、数字を必要とする側の世界が変わっていたことだ。電子式の計測器や計算機が普及期に入り、機械が吐き出す数字を人間が読み取るための、小さな表示デバイスの居場所が生まれていた。表示装置としてはすでにブラウン管があったが、数字や記号を数桁示すだけなら、もっと小さくて安い部品で足りる。1950年代のニキシー管は、その隙間に登場する。
1954年、米国の事務機大手Burroughsが、ニュージャージー州の真空管メーカーHaydu Brothersを買収する。技術誌IEEE Spectrumが関係者の証言をもとに伝えるところでは、Burroughsは1955年に西海岸の展示会で数字表示管を発表し、そのまま出荷を始めた。1956年12月10日には米国で「NIXIE」の商標を出願している。以後この名前は、少なくとも米国では、誰もが自由に使える呼び名ではなくなった。
もっとも、発売にこぎつけて終わりではなかった。市販型番「6844A」の1957年11月付データシートには、この管が前の型6844の改良版であり、表示ドームの黒ずみを抑えるための金網を備えると明記されている。黒ずみの正体は、放電のたびに陰極の表面から金属の原子が叩き出され、ガラスの内側に付着していく現象で、放電管の寿命を左右する宿命的な劣化である。発売から2年で対策を盛り込んだ改良版が出ているところに、量産品として鍛えられていく速さが見てとれる。
製品は急速に広がった。IEEE Spectrumによれば、1960年代には米国、欧州、ソ連、日本などで20社を超えるメーカーがこの種の管を製造し、計測器や工場の設備、そして証券取引所の株価表示にまで載っていく。Boswau氏が明細書に描いた株価ボードの構想も、四半世紀を経て、別の会社の製品によって現実になった。
ところで、NIXIEの名は「Numerical Indicator eXperimental No.1」の略とされることが多い。ただし、当時の文書による裏付けは見つかっていない。Computer History Museumの収蔵記録には、製図工が図面に書き込んだNIX-1が始まりだとする別の説も残っている。
発明者の記録も割れている。米ボストンのThe Computer Museumは1987年の会報で、ベル研究所のDavid Hagelbarger氏を発明者とし、本人から試作管と特許資料の寄贈を受けたと記す。一方、後継のComputer History Museumの収蔵ノートは、量産型の設計を1948年頃にまとめたのはHaydu兄弟で、Burroughsはその特許を買い取ったのだと伝える。名前も発明者も、決め手になる文書は見つかっていない。
車1台分の電卓が、需要に火を付けた
日本では、この部品は「数字表示管」や「表示放電管」という名前で作られていた。NIXIEはBurroughsの商標だが、商標権は登録した国でしか効力を持たない。日本でも登録されていたのかどうかは確認できておらず、別の名で呼ばれた事情を語る資料も見つかっていない。
岡谷電機産業の公式沿革には、1958年に数字表示管の第一号を納入し、表示放電管「GR-1」と「GR-2」の生産を始めたと記されている。1964年には大型表示管式のデジタル時計「T-401」型を発売し、1968年には表示管「エルフィン」GR-111を発表した。放電で数字を光らせる技術は、米国の商標の外側で、日本の産業に根を下ろしていた。
需要を押し上げたのは電卓である。1964年、早川電機(現シャープ)が発売した卓上電子計算機「CS-10A」は、ニキシー管による20桁表示を備えていた。価格は53万5000円だった。シャープは、当時の1300ccクラスの乗用車とほぼ同じ値段だったと説明している。数字を光で示す機械に、車1台分の値が付いた時代である。

各社が電卓の小型化と低価格化を競うなかで、表示管の生産は膨らんでいく。岡谷の沿革は1970年に「電卓用表示管需要ピーク」と記録し、1973年には表示管の月産が22万6000本に達した。1934年にひとりの技師が特許に描いたものとよく似た構造が、40年後には一社だけで月に22万本も量産されていたことになる。そしてこの部品は、2026年のいま、量産では1本も作られていない。
LEDは脇役で終わる、はずだった

需要が消える気配は、当時の紙面にはなかった。IEEE Spectrumが伝えるところでは、1971年の業界誌はニキシー管が今後も使われ続けると予測し、LEDについては脇役に終わる可能性さえ示していた。的外れな見立てとは言えない。LEDは1962年に可視光での点灯にこぎつけていたが、この時期はまだ暗く、高価だった。
置き換えの主役は、外から来た別分野の技術ではなく、同じ電卓向けの表示部品だった。伊勢電子工業(現ノリタケ伊勢電子)の中村正氏が蛍光表示管(VFD)を発明し、1967年5月29日号のElectronics誌で世界に紹介された。ニキシー管よりはるかに低い電圧で駆動でき、量産に向いていた。蛍光表示管はその後、家電や車載のメーターへ広がり、いまも製造が続いている。
交代の速さは、岡谷の沿革にそのまま刻まれている。1970年に電卓用表示管の需要がピークを迎え、同じ年に7セグメントの多桁表示管を発表する。1973年の月産は22万6000本に達していた。そして1975年、LED7セグメント表示器の製作が始まる。同じ会社が、沿革のわずか数行のうちに、次の表示技術へ乗り換えている。
ニキシー管が退いた理由を、省電力の一語で片づけることはできない。電力の勝負なら、同じ電卓市場で蛍光表示管が生き残った説明がつかない。明暗を分けたのは、駆動電圧とICの相性である。1970年代、電卓の頭脳は数Vで動くデジタルICに置き換わっていった。その回路の中で170V前後を必要とする部品を光らせるには、そのためだけの昇圧回路と駆動回路を抱え込まなければならない。ICと素直につながる表示素子が現れれば、設計者がそちらを選ぶのは自然な流れだった。
こうして西側の各社は、1970年代から1980年代にかけて生産をやめていく。数字を光らせる仕事はVFDとLEDに引き継がれ、ニキシー管の話はここで終わるはずだった。
ソ連の倉庫から、世界の机の上へ

ところが、話はここで終わらなかった。西側の工場が手を引いたあとも、ソ連圏では「IN-14」や「IN-18」といったINシリーズの生産が続いていたのである。いつまで続いたのかは、資料によって1980年代前半とも1990年代初頭ともいわれ、幅がある。後に登場するチェコの作り手Dalibor Farny氏は、2019年に英国のMaker向け雑誌HackSpace(現在はRaspberry Pi Official Magazineに統合)のインタビューで、ロシアでは1993年まで製造が続き、売り先のないまま倉庫に入れるためだけに作られていたと語っている。工場側の記録で裏付けられた話ではないが、のちに世界中へ出回る大量の在庫がどこから来たのかを説明する証言ではある。ソ連崩壊後、各地の倉庫に眠っていた未使用品は、eBayなどを通じて世界中に流れ出した。
ここから、奇妙な逆転が始まる。作られなくなった部品が、作られていた頃より広く、個人の手に渡るようになったのだ。現役時代のニキシー管は計測器や電卓の内部部品であり、個人が箱で買うものではなかった。同じインタビューでFarny氏は、2005年ごろにニキシー管の人気が高まると、ロシアやウクライナで古い在庫が掘り起こされ、製造原価を大きく下回る値段で大量にネット販売されるようになったと振り返っている。1本数百円から数千円で誰でも買える工作材料になり、自作ニキシー管時計の文化がこの在庫の山の上で育った。

日本にも、在庫から生まれた製品がある。2014年、電子工作キットメーカーのビット・トレード・ワンが、秋葉原の部品店から出てきた岡谷電機産業製のニキシー管1000本を引き取り、点灯キットとして製品化した。半世紀近く眠っていた国産の管は、1970年代の検査証が付いたまま、Makerの手に渡った。
ただし、この遊びには入り口に壁がある。ニキシー管を光らせるには170V前後への昇圧が必要で、乾電池やUSBの数Vとは桁が違う。見た目は美しいのに、気軽には扱えない。そんな性格のせいで、ニキシー管は電子工作に慣れた人の部品であり続けてきた。
そして当然のことながら、在庫は増えない。国産のまとまった在庫は、もう市場に出てこない。ソ連製も、掘り出せばいくらでも出てくるわけではない。在庫の上に成り立つ文化である以上、終わりははじめから見えていた。
復刻に挑む現代のMakerたち
在庫が尽きるなら、新しく作ればいい。誰でもそう考えそうなものだが、話は単純ではなかった。作り方を知る者が、もう世界のどこにもいなかったからである。
チェコのFarny氏は、もともとプログラマーである。2018年に公開されたインタビューで本人が語ったところでは、ニキシー管との出会いに劇的な物語はない。インターネットで偶然見つけ、美しい古い技術だと思い、調べるうちに、もう誰も作っていないと知った。趣味が執着に変わり、2011年の終わりに製法の復元へ踏み出した。
最初の見積もりは甘かった。5000ドル(約79万円)あれば、封止機を買い、人を雇い、材料を揃えて作れると考えていた。しかし、製造と販売にこぎつけるまでにかかったのは、8万ドル(約1300万円)で、3年を要した。最難関は高真空の制御だった。空気を抜けば真空になると思っていたが、抜いたあとも管の中にはガスと不純物が残り続ける。そこに気づくところから始めるしかなかった。
道具も売っていなかった。1968年製の封止機を英国のeBayで見つけ、2000ポンド強(約43万円)で買い、妻に知らせないまま庭に据えて小屋を建てた。真空引きとガス封入の装置は自作するほかなく、1年以上をかけて作り、いま使っているのは3代目にあたる。
ガラスに導線を通して封止する技術そのものは、消えたわけではない。大電力用など特殊な用途の真空管はいまも作られていて、そこでは現役の技術である。ただしそれは、ごく一部のメーカーが自社のために抱える技術になっている。ニキシー管を作るための装置を、製品として売ってくれる産業はもうどこにもない。
管の寿命を縮める大敵は、陰極の表面が汚染されていく陰極被毒(カソードポイズニング)と呼ばれる現象である。Farny氏はこれを最悪の問題と呼び、できる限り清浄に作ることで寿命を延ばそうとしている。
生産は2013年の週1〜2本から、2018年には月100〜250本まで伸びた。工房はチェコ東部の16世紀の城の中にあり、手作りの管の通し番号は2025年末に2万1000番へ到達している。2025年には、中国の電子技術者Yan Zeyuan氏と組んだ300台限定の時計のために、週60本の生産計画で1年の大半を管づくりに充てた。
同じ時期、日本にも新造に挑む作り手がいる。埼玉県北本市で「ニキシー管工場ARNEO」を名乗るユナデジック氏は、2012年12月に管そのものの開発へ着手し、2021年にはCAMPFIREのクラウドファンディングで320人から612万5126円を集めた。目標200万円に対して306%である。
興味深いのは、二人が詰まった場所である。Farny氏はガラスを貫通する11本の細い導線の封止に手こずったと語り、わずかな亀裂から空気が入って不良になると明かしている。ユナデジック氏も2022年末の活動報告で、管の内外を電気的につなぐピンチステムと呼ばれるガラス部品からのリークを技術課題の筆頭に挙げ、半自動の加工装置を自作して1日10個ほどだった生産性を数分に1個まで上げたと報告している。ガラスと金属の境目がなぜ鬼門になるのかは、材料ごとの熱膨張の差が関わるとみられるものの、専門家への確認がまだ取れていない。確かなのは、別々の国で互いを知らずに始めた二人が、同じ箇所に最も長く足止めされたことだ。
読むための数字から、眺めるための光へ
ソ連製の在庫はまだ流通しているが、無尽蔵ではない。国産の在庫は事実上尽きた。その一方で、新品の管を作る人たちは途絶えていない。先の章で紹介した2人だけでなく、新造管「ZIN18」などを製造するウクライナのMillclockなど、国をまたいで手作りの管が生まれている。
買い手も減ってはいない。2025年のKickstarterでは、旧ソ連製の管を選別して使う腕時計のプロジェクトに508人が集まり、170万6437香港ドル(約3450万円)が動いた。
使われ方も変わった。ニキシー管はもともと、計測器や電卓の数字を読むための実用部品だった。それがいまは、スイスの高級時計ブランドUrwerkとFarny氏が組んだ33台限定の置時計になり、米国のアーティストAlfredo Jaar氏の作品のために数字の高さ135mmの特注管まで作られている。数字を読むための部品が、眺めるための光になった。

では、なぜ手作りなのか。理由のひとつは、ここまでの歴史そのものにある。Farny氏の工房は、自身のサイトに「工場が閉じたとき、管に光を与えていた道具と知識も一緒に失われた」と記している。量産の仕組みが残っていない以上、作るなら手で作るしかない。もうひとつは、作り手の側の動機である。工房は自らのWebサイトで、ニキシー管を蘇らせる理由を、懐かしさのためであり、同時にアートと工学が出会ったときに何ができるかを示すためだと掲げている。先のインタビューでは、もう少し率直にも語っている。すべて手で作っているのは格好よく聞こえるが、機械がなかったからという面もある。そして客は、壁に絵を飾るように技術のアート作品を買っていて、古い技術を生かし続ける誰かを支えたいのだろう、と。数字を表示するだけなら、LEDで事足りる。それでも、ガラスの中で金属の数字が光る姿そのものに価値を見いだす人がいて、手作りの管には買い手がつく。
1934年、Boswau氏が特許に描いたのは、株価を刻々と映し出す放電の光だった。それから90年あまり、数字を伝える役目はとうにLEDと液晶に譲ったが、あの橙色の光は、世界のあちこちの作業台で、今日も新しいガラス管の中に灯っている。

